〖 other 〗
- 幸せな夜
- ノルドハイム×リザベル
- 早く服を着ろ
- クロウ兄s
- アルベルタの海とコーヒー
- ダリオ
- 炊き出しの日(あるいは、休館日)
- オーフェン+ジェナード
- あなたの目から覗く世界は
- レグルス×ウィステリア
〖 old 〗
〖 ノウ 〗
〖 Fanart 〗
- 胸に馴染まない居心地の良さ
- うらけんさん@uraken_eと9さん@coconotsu_9ちの影葱くんと皿くん
- 軌道
- 影葱くん独白
〖 other 〗
〖 old 〗
〖 ノウ 〗
〖 Fanart 〗
日差しが、光っている。
薄いレースのカーテン越しに、そしてその隙間から、ちらちらと白い光が風にゆれて瞬いている。ガラスビーズのモビールみたいに、ときどき、きらっと光って、きれいだ。
懐かしい匂いのする光景だった。
かすかに開きかけていた目をもう少し開けて、アレイスは窓を見た。
カラカラと、ゆるやかな風の音がする。視界はぼやけていた。朝か。
「どうして」とふと思って、けれど窓辺に緑色の人影をみつけて、それで納得がいった。
朝だ。彼女が窓を開けた。
美しく波打つ長い髪、レースの向こうから息遣いが聞こえる。
「すみません、起こしましたか」
アレイスが体を少しだけ起こすと、すぐに彼女が振り返ってこちらを見た。こちらに気を使う必要はないと手だけで静止して、彼女に言う。
「いや、良い部屋だね、朝日が入る」
眠ってしまったのか、とアレイスは昨夜の記憶を探した。ミネルヴァの部屋で、衣服も碌に身に着けず。
カラ、と音がなった。窓に目をやる。細く長い紐――ウィンドチャイムだ――貝殻の――アルベルタで彼女が買った。
自分の今の感覚のすべてに合点がいく。
「あと、風も」
言うと彼女は、チャイムを振り返り、それから目元を少し緩めた。
甘く懐かしい気持ちになるのは、アルベルタ土産のせいだ。あの新婚旅行からちょうど一か月が経った。記憶も薄れ日常に戻った頃合いに、突然あの日の手触りだけがやってくる。それとも昨晩、久しぶりに彼女と寝たからだろうか。
頭がどこか、ふわふわと心地の良い空気の場所に留まろうとしているみたいだ。今から、起き上がって服を着て仕事に行くという実際の現実を考えると、何もかもを放りだしたい気持ちさえしてくる。そしてそんな気持ちになること自体が、まるで若かったあの頃の(どの頃の?)ことのようで、遠い記憶と感覚に、なんだかむず痒さを覚えてしまう。
これからの結婚生活が当初の契約通りに進むのであれば、これから毎月に一度はこうなることになるのか。となると、この部屋で寝るのは考え物だ。
(人間に戻れなくなる)
「コーヒーを飲みますか」
ミネルヴァはサイドテーブルからカップを取り上げ、こちらへ視線を向けた。
「敬語」
アレイスが笑うと、彼女は一度きゅっと口を結び、それから少し困ったように微笑む。
「……気を付ける」
その表情。
(完璧な知性と成熟した精神から覗く、どこかちぐはぐな、あどけなさ)
その姿。
(白い繊細なレースに縁取られた、白くすべらかな肌。そこから続く非の打ち所のない曲線)
美しい髪に、美しい瞳に、美しい体躯に、可愛らしい彼女。
返事ができない。
身体が勝手に、この場に留まりたがっている。
カラカラと、風の音が鳴る。
(人間に、戻れなくなる)
・・・
結局、彼女のコーヒーを断り、おはようのキスを落とし、逃げるように寝室を出て、自室でシャワーを浴びてから、法衣にそでを通すことによって、アレイスは世界をまた元通りの灰色に戻してみせた。
いつもの時間に職場につき、教会の石廊下を歩きながら、絶望的なまでに彩度に欠いた我が根城に、いっそすがすがしい気持ちですらあった。
仕事場に入れば、デスクの上には書類の山。これらの中身もまた例外なく、解決される気配すらない問題ばかり(責任の押し付け合い、くだらない面子の潰し合い、またはその両方)である。アレイスはデスクの椅子に深く腰掛け、大きく息を吐く。
あまりに素晴らしい、これこそ人生だ。
「ご機嫌になられましたか」
アレイスのためのコーヒーをデスクに置きながら、部下のナツキが淡々とそう言った。
無論、皮肉だ。今朝の書類は、比較的多い部類だった。
それだって、全然、悪くない。辟易するものばかりに囲まれて、だからこそ馬鹿にしがいのあるというものだ。
「一人でやるのが実に惜しいね、分けてあげたいぐらいだ」
「残念です」
すました顔でナツキはそう言い、あっさり自分の席に戻っていった。
あの顔も、いつも能面というわけではない。
先月だって、新婚旅行休暇から戻ったばかりのアレイスを、ナツキが生意気にも「どうでした、ハネムーン」とからかってきたものだから、「夜はほとんど寝かせてもらえなかった」と答えてやったばかりだ。
軽く小突いてみただけなのに、ナツキは面食らった顔をまったく隠せないまま「は?」と顔を上げていた。その固まった表情をちらりと確認してから、随分と愉快な気持ちでその日は仕事ができたものだった。
あの時のナツキの顔と言ったら。
あんな分かりやすい動揺をするようでは、まだまだ他院の司教会には出せない。
早く彼にも、“人並み”の仕事を身につけさせなくては。
つまるところ、更に泥に染め上げて、もっと使えるようにする、という意味に他ならない。
(……)
ふいに、今朝の寝室がアレイスの脳裏をよぎる。
カラカラとした、風の音。
あの白い部屋の中で、彼女の緑の長い髪だけが、唯一、色を知っているようだった。
ミネルヴァ。
貝殻の細い紐。
カーテン。
薄く透ける、きらきらとした光。
ゆっくりと、溶けるように、流れていく手触り。
そして、今、目の前にある、机に本に書類にペン――丹精込めて育て上げた、完璧な混沌たち。
そもそも、土台に上げることすら愚かなのかもしれない。
自らもすすり、愛弟子にもすすらせるからには、美しく緻密な泥であるべきだと考えていたが、泥は泥でしかないとも言える。
育ったところで、出来上がるのは、自分のようなプリーストだけだろう。
「まあ、ならなくていいか。人間になんて」
「はい?」と、またナツキが不可解そうに顔を上げた。
まだまだ、どうにもならない事ばかりだ。
2026.08.03
抱きたい、といっても、初めはただ単純に抱きしめたいだけだった。抱き寄せて、眠りたい。あの感触を腕の中に閉じ込めたまま、一日の幕を下ろしたい。彼女に触れたまま、あの匂いに包まれたまま、目を閉じて意識を手放したい。そういう感情しかなかった。
それを性欲と呼ぶのか、正直なところカリシュには分からない。人と比べたことはなかったし、他人とその感覚について話を擦り合わせたこともなかった。ただ、大多数の人間が、男が女にするそれを性欲と呼んでいることは理解していたので、他人からはそう呼ばれているらしい自分の中の例の感覚、といった認識程度だった。自分に限って言うのなら、女にしかいだかない感情ではないし、必ず性交と結びつくものでもない。おそらく一般的な意味でのそれと、自分の中のこれとは、大きな乖離がある気がする。
一般的な意味との乖離――などということ言い出せば、カリシュにとってこれはもう、ほとんど全ての感覚がそうだった。自分の感覚は、何もかもが他人とまるで違う。だから同じ言葉を使ってそれらを言い表すと、後になって大抵、話がこじれてしまう。
湧き上がってくる感情たちを自分の中だけで比較するなら、喜怒哀楽だって、嫉妬や誇りや正義感や罪悪感だって、認識としてはちゃんと存在しているはずなのに、他人のそれらと比べた途端に自分の感情たちは『そうではない』ことになる。
その頻度があまりにも多いから、擦り合わせることに疲れてしまった。誤解させたいわけではないのに、どこで誰を怒らせて、どこで誰を悲しませるのか、もうカリシュには分からない。いずれそうなる、ということが経験則的に理解できるだけだ。
他人がどう呼ぼうと、自分のこの感覚は人とは違う。
これは自分の中では性欲だけれど、大方これだって一般的な意味のそれじゃない。大衆のための知識や、大多数に当てはまる教訓は、どれも自分のためのものではない。共感もできないし、知見を上手く利用することもできない。
どうせこの『抱きたい』だって、本当は『抱きたい』という感情じゃないんだろう。
そういうある種の諦めからくる逆説的な自信ともいえる慢心が、心の奥底にあったと思う。
ところが、最近の自分といったら、どうだ。
実際、夜、眠る前に、ベッドの中でフィオナが自分の腕にすっぽりおさまっているこの状況。
普通に抱きたい。
衣服を取り去って、じかに肌を確かめたい。あの丸く尖った耳の先端を口に含んで、あられもない声を出す彼女を腕の中に閉じ込めていたい。腹から太ももにかけるすべらかな隆起を、手のひらでなぞって、柔らかい内股を開かせたい。そのまま挿れたいし、出したい。
毎晩、毎晩、そう思う。
なんだこれは、病気か、とまで考えて、ああ、そうかと思い至った。
これが性欲だ。
性欲だ、結局その言葉で良かった。けれどこの欲求は確実に以前とは違う。分かっていたはずの感覚が、自分の知らない何かに段々と形を変えていっている。だってフィオナに対する感情は、こんなに唐突な衝動じゃなかった。こんな、フィオナが側に寄り添ってくるだけで条件反射的に捕まえて、どうにかしたくなるような――指先で、手のひらで、唇で、舌で、全部を、とにかく全部を確かめてから、いっきに食べてしまいたくなるような、丸呑みしたくなるような――そんな衝動ではなかった。
そうではなくて、もっと、こう、柔らかな彼女の匂いを吸い込んでどっぷりと眠ってしまいたいような類いの、あるいは、ゆるゆる眠り行く彼女の頬を指の背でやわく撫でていたい類いの、そういう毛色の感情だった。
いつからだろう。
自分の感情はいつからこんなに、凶暴性を持ったのか。
性の快楽は嫌いじゃない。得られるなら、得たいと思う。でも気乗りする日としない日があったっていい。いや以前はあった。そういうものだと思っていた。
だからこそこんな、フィオナが腕の中に来るたびに反射的に欲情するのはおかしいと思う。別に誘惑されているわけでもない。本当に、ただ、同じ布団の中に彼女がいるだけで。毎晩、毎晩――異常でしかない。
もしかすると、世の中の人間はこういう感情を毎晩持て余してるのかも知れないし、もしかすると、毎晩こんな突飛もない衝動をかかえこんでいるのは世界で自分ただ一人なのかも知れない。どちらなのか分からないし、どちらだとしても自分の陥ったこの状況はなにも変わらない。
こんなことをフィオナに話したら笑われるだろうか。それでも彼女は律義にすべての話を聞いてくれるだろう。少しでも分かろうとしてくれるだろうし、許可さえしてくれるかもしれない。けれど、さすがに毎晩セックスをするわけにもいかないので、こんな感情を話すのは得策じゃない気もする。
そうすると必然的に、自分で消化してしまうより他はなくなって、そして毎晩、あの葛藤が始まる。
だからカリシュは、靄のかかったはっきりしない気持ちのまま、毎回、一旦は感情を堪えようする。それで強引に眠ってしまえる日もある。だが大抵は、意地汚い気持ちが尾を引いて、少しだけなら、と、腕の中いる彼女の、耳の先にやわく歯を立ててみる。途端に、フィオナがくすぐったそうに声を漏らして、体をきゅっと縮こませ、あげく困ったように「もう」と言う。たまったものではない。そうしないように堪えているからこういう結果になっているのに、てんで逆効果だ。抱きたい一色に頭が染まる。一度だけなら、と口付ける。彼女のこちらを見る目が何故かとろんとまどろんで、無防備になる。そのままだとこぼれ落ちそうだから、抱きなおす。隙がうまれると、つい首元に手がいく。地肌に触れると、そのまま勝手に手が下へと滑り落ちて、服の中に、そのあたりで、もう自分が引き際を見失っていることに気付くけれど、唇で耳の輪郭をなぞることがやめられなくなっていて、口付けて、歯を立てて、舌で触って、フィオナが切なそうに抑えた声をあげて、もうどうにもならない。毎晩、毎晩。
馬鹿じゃないのか。馬鹿みたいだ。一体いつからこんなことに。
我慢しても我慢しなくても、頭が変になりそうだ。
2024.09.09改

ウィステリアが夫の部屋に入った時、ドアの辺りにはすでにアルコールの匂いが充満していた。くぐもっているのに何故かツンと鼻を刺すブランデーのような香りだった。広くない部屋だ。数歩すすめば、すぐにベッドの上に彼が倒れているのが見えた。灯りはない。ドアを閉めるか少しためらったが、この状況を他の人間に知られることと、今の彼と二人きりなることを天秤にかけ、後者を取った。ガチャリと扉が閉まる音が響き部屋は一度真っ暗になったが、幸い月明りがある夜だったおかげで、ウィステリアの目はすぐ暗闇に慣れた。
「はは。なってない。全然、なってないね」
ベッドからレグルスの声がした。起きていたことにウィステリアは驚く。ノックをしたときに部屋の主からの返事はなかった。彼の声はいつもより幾分か明瞭さを欠いた発音だった。
「確かに俺の妻はそのぐらい綺麗だ。でも、まったく自業自得な理由で自棄を起こして酒に溺れた男を、心配して部屋に訪ねてくるほどの愚かな優しさを持ち合わせていないんだ」
彼がなんの話をしているのかは分かる。けれど、誰に話しているのかがウィステリアには分からない。
「彼女は聡明な女だ。だから、俺の幻覚にしたって、悪魔の誘惑にしたって、その姿はまったく『なってない』んだよ、分かるだろ」
もしかすると、寝言なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりに多くを話しすぎている。酔って、前後不覚になっていると考えるほうが自然だ。
「……そう」
ウィステリアは短く返事をした。するとレグルスはまた乾いた声で笑った。
「声まで完璧じゃないか。よくできた虚構だ」
ベッドサイドテーブルには、数本のビンが空になって並べられていた。床に落ちているビンすらある。彼がこんな量の酒を飲んでいるところも、飲んだ酒をこんな風に雑然と置きっぱなしにしているところも、ウィステリアは見たことがない。そもそも、レグルスは酒に強いか弱いのか、それすら知らない自分に今気が付いた。
「放っておいてくれ」
彼は顔を腕で覆っていた。
「くだらない妄想に、付き合ってる余裕はないんだ。俺の魂に価値なんて付きやしない。堕落した快楽を貪るような生活を満喫している」
なんだか自分に言い聞かせるような言い草だ。ウィステリアはベッドに腰を下ろした。レグルスはこちらを見ようともしなかった。彼が自分をそんな風に扱ったことは今まで一度もなかった。だからこそ、彼は今夢の中にいるのかもしれないと、そう考えたくなっている自分が、なんだか急に愚かしく思えてきた。
「酷いことを言った」
レグルスは突然、そう呟いた。
「あんな傷ついた顔、初めてさせた。俺はずっと、彼女に対してはめいいっぱい慎重に話してたんだ。ずっと、何年も。だから、もうおしまいなんだよ。慎重が、アダになった。今頃、彼女は部屋で父親宛に手紙を書いている。それだけのことなんだ。たったそれだけで、すべてが事足りる。その一筆が送られて、翌日にはあの家の戸籍から俺は消えてる。翌週には新居だった邸宅の名義が変わっているだろう。俺は名実ともに無一文で無職の放蕩者になる」
ウィステリアは、今晩手紙を書いていない。別件で書こうと思っていた手紙すら、取りやめたところだった。確かに彼と初めて言い争いのようなことをしたが、そんな程度のことで離婚しようだなんて夢にも思っていなかった。けれどあの口論で、自分が驚き傷ついた以上に、夫は傷だらけになっているようだった。何が彼をそうさせたのか、心当たりがほとんどないことにウィステリアは段々と、焦燥感に似た――感情になる前の言葉の切欠のようなものを、覚えてくる。
「彼女のために、全部捨てたんだ。人生の全部を。あんなに欲しかったオヤジからの関心も、あんなに努力して取った教会の役職も、彼女の前じゃ、おがくずみたいに軽く吹き飛ぶごみだった。馬鹿だと思うだろう? でも、好きだったんだ」
レグルスの声は弱く、微かに震えていた。どんな顔をしているのか、腕に覆われて表情が見えない。
「分不相応な欲をかくからこうなる。俺にもチャンスが巡ってきたって、馬鹿みたいに飛びついて。必死に媚びて、騙して、無理やり婚姻届けにサインさせて、これで俺の勝ちだって、………あははは、本気で思ってたのか? 手に入れたって? やっとここまできて、まさか、自分がとんだ欠陥品だったなんて、あはははは…!」
レグルスは寝返りを打った。小さく丸まるように横を向き、ウィステリアからは背中しか見えなくなった。
「…………遅かれ早かれ、こうなるなら、」
彼の声は途端に届きにくくなる。ウィステリアは消えていく音を追って、彼を覗きこんだ。
「もっと、……やさしく、……してやればよかった。あんな終わり方に、なんで俺は…………」
声はそこで途絶えた。
ウィステリアが覗き込んだ彼の瞳は閉じられていた。握り込まれていたらしい酒瓶が、彼の手からこぼれて布団に落ち、さらにバランスを崩してゴトリと床にまで落ちて行ったが、その音にレグルスが気づくことはなかった。
起こすべきなのか、ウィステリアは迷ったが、彼を起こしたところで、今なにを話せばいいのか、まったく見当もつかないどころかどう算段をつけていいのかすらも分からない自分を自覚したところだった。
婚姻届けに無理やりサインさせたのは、むしろ自分の方だと思っていた。彼の世界では、まったく違う、何もかも別の物語が進行しているらしい。ウィステリアには彼と別れる気はないが、ここまで彼が固く離婚を信じているからには、何かそのような盟約が、父と彼の間でなされているのかもしれなかった。そんなものが、仮にあるのなら、理不尽だ。いや、理不尽だと思っている自分に、ウィステリアは少し驚いている。彼と別れることを、自分が了承していないままに、勝手に進められるのは嫌だ。子供なんていなくても、彼と人生を過ごす気でいたらしい。自分の感情が、なんだか不思議だった。
「……レグ」
呼び慣れたはずの彼の名を、小さく口にしてみる。呼びかけに、彼が応えないことが、これほど自分を不安にさせるとは思っていなかった。
2024.03.11
建物の外に出ると、時刻は既に昼も暮れかけのころだった。もう少しすれば、赤や黄や緑のグラデーションが空に描かれる首都の夕焼けが見られるのだろうが、オーフェンが自室にまで移動する間にはそのような美しい時間は訪れない。今、頭上にあるのは、ただ採光を欠き白っぽく濁った空だけであり、昼の活力を失ったばかりか夜の魅力が得られていない半端な合間の時間そのものであり、そこに立っているしかできないひたすらに矮小な自分だけなのであった。
まったくの徒労に終わった一日だ。他人の要件に振り回される朝から始まって、自分の用事もろくに手につかない昼が過ぎ、もうほぼ終わりかけの日暮れに差し掛かっている。外からやってくる問題事を片付ける順番が自分で選べるだけの日のことを、休日と呼ぶのはいい加減にやめるべきだ。ため息交じりに皮肉なことを考える。オーフェンだって、この後の夜の時間を完全に自分の思い通りに過ごせるのなら、こんなくさくさした気分にならない。でもそうはならないに決まっている。こういう一日の夜はいつだって、朝昼に続く厄介ごとに振り回される夜になるのだ。
露店通りの賑わいを避けるために迂回した道で、オーフェンの視界に見知った顔が映った。王立図書館の入口の前に、目立つ緑髪のウィザードが立っている。同盟ギルド・クレッセンスの新人で、名前は確かジェン――ジェナードだ。記憶の中の人物図鑑から名前を引き当ててから、オーフェンはもう一度彼を見た。両扉がしっかりと閉ざされた図書館の入口の前で、ジェナードはなぜかドアの上を見ていた。彼の視線はゆっくりと下に降り、さらには何かを探すように左右に振られた。オーフェンは通りがかりついでに彼の側に寄った。
「休館日だぞ」
突然、声をかけられて、ジェナードは相当驚いたらしく両手の本を引き寄せてこちらのほうを振り返った。しかし自分に声をかけたのがオーフェンであることを認めると、途端にその顔から驚愕の表情を消し、澄ましたいつもの落ち着きを取り戻す。
「こんにちは」
「ああ」
礼節を欠くことなくジェナードは挨拶をし、オーフェンはそれに応える。そのころにはオーフェンの歩みもジェナードのすぐ隣にたどり着いていた。王立らしい豪奢な葉模様の細工がほどこされた木製の大扉は、無情ともいえるほどしっかりと太いチェーンで施錠されている。
「閉まってるのを知らなかったのか?」
「休みは第三曜日だと聞いていて……」
「教会の炊き出しがある週は、代わりに次の日が休みになる」
「え……」
オーフェンはジェナードの手に持たれた分厚い三冊の本に目をやった。一番上の本の表紙には見覚えがある。詠唱学の記述書だ。ギルドの狩りもない日にこういった手合いの本を読む勤勉ともいうべき人間に対して、オーフェンは少なくない共感と同情を覚える。ギルド合同の飲み会でも数人を交えて彼と話したことはあるが、その時の印象ともその本の中身は合致していた。ようは真面目なウィザードなのだろう。そして、何故か平素をこう実直に生きている者に限って、重い本を運んできた先が閉まっているというような不運に見舞われるのだ。
「出身はゲフェンだったか」
「あ、…はい、そうです」
「あそこが塔の都合を町の生活の最優先にするみたいに、プロンテラでは教会が何もかもを捻じ曲げて優先されるんだ」
「はあ……そういう、ものですか」
言ってしまってからオーフェンは、まだ二次職になってから数年しか経っていないだろう冒険者に、自分のような年の離れたプリーストが聞かせるにしては少し冷笑的すぎる話だったか、と内省した。
「すまん。俺もゲフェンの出なんだ。……年々、あっちの嫌な老人の喋り方に近づいている気がするな」
「え、そうなんですか。全然、そんな感じは」
ジェナードは否定したが、それすらも言わせてしまった社交辞令の一環になった気がして、オーフェンはこれ以上自分が彼に関わっても彼にとって利がないことを悟る。自分自身が、この青年に見舞われる『不運』の一部になってしまっている。
「本を持って帰るのが重いなら、教会に行くといい。仮の返還箱があるから。炊き出し受付のプリーストが預かってくれるはずだ」
へ、と小さい声を漏らしてジェナードがオーフェンを見上げた。
「俺は教会からの帰りだ。まったく、お互い災難な一日だな」
「ああ、そうだったんですね。……お疲れ様です」
ジェナードは、嫌な顔ひとつせず、かといって喜んでいるようには見えない顔のまま、「じゃあそっちに行ってみます」と言った。彼はどうにも表情が乏しい。オーフェン自身はむしろ好ましい落ち着きだと思えたが、多くの人間にとっては、どうだろうか。誤解されて損をしてしまいかねないだろう。けれど、やはり自分がこの若者に対してしてやれることは何もない。そのもどかしい気持ちを押し殺し、オーフェンは唯一自分が出来る『この場から立ち去る』という選択を取ることにした。
「じゃあな。また、飲み会で。今度はその本の話でもしよう」
「あ、はい。……ありがとうございます」
軽く手をあげ、元来た昼下がりの曇天の道にオーフェンは戻っていく。
もしかすると、声を掛けたこと自体が、余計なお世話だったのかもしれない。100人規模のギルドのサブマスターという現状の肩書では、些細な親切心が、ともすれば暴力的ですらある圧力になってしまいかねない。厄介なものを背負ってしまったと思う。
「あの…!」
ほとんど離れかけた頃、オーフェンの後ろからジェナードの声が掛かった。歩きながらちらりと振り返ると、彼はこちらを見ながら、焦った調子で声を張ったようだった。
「楽しみに、してます…!」
オーフェンは思わず微笑んだ。それまで考えていた自分と彼の間の年齢や立場的な差による配慮は杞憂だったようだ。
「ああ、楽しみだな」
そう若いウィザードに遠くから返答をし、オーフェンは今度こそ岐路についた。
ほとんどが、くたびれるばかりの毎日だ。けれど味気ない日常に、美しい未来の欠片を見つけることもある。
2024.03.10
レニは正直、今日が約束の日だということを、すっかり忘れていた。
だからぼんやりと宿でコーヒーを飲んでいた昼下がり、イアーゼが「待たせたな」と自分のテーブルにやって来たとき、何のことだか分からなさ過ぎて、芝居か何かなのかと疑ったほどだ。面倒くさい奴らから逃げるために、騎士と待ち合わせしていたていにする――だとか、そういった感じの事情で、自分は話を合わせるべきなのかと一瞬、周囲をうかがった。(どうしてかは謎だが、ギルドマスターのイアーゼは、無礼な輩にやたらと喧嘩を売られている。童顔で、背が低いからかな、とレニは考えている。)
しかしイアーゼの後ろにいたのは、背の高い緑髪のプリーストで、その男はイアーゼと同じ匂いのする冷静そうな表情をしていた。
「ヴィアのサブマスター、オーフェンだ」
イアーゼからそう言われて、レニは心の中で「あ」と真相に気づく。
(やっべ、週明けだった。完全に忘れてた、あぶねー)
ギルド狩りのない週末の休みに、何かできる仕事はないかとずっと探していたレニに、「攻城戦はどうだ」とイアーゼが持ち掛けたのは先週のことだ。同盟ギルドにやっているところがあるから、参加してみるのもいい、とその時は雑談程度の話だった。あの時、イアーゼは確かに「週末は向こうも忙しいだろうから、週明けの昼にでも話を通しておく」と言ったが、それきり進捗の報告はなく、『できたらやる』みたいなことかなとレニは半分流していた。
しかしどうやらイアーゼは、しっかり約束を覚えており、きちんと話を通してくれたらしい。マメだ。
(マメだからかな)
「オーフェン、これがうちのレニだ」
レニの向かいに立ったプリーストの男は「よろしく」と握手を求めてきたので、レニは慌てて立ち上がり手を握った。
「どうも、レニです」
「驚いた、男だったのか」
どう見てもピクリとも驚いていない落ち着いた態度で、オーフェンはそう言った。
「? 女だと言ったか?」
と、イアーゼがオフェンを見上げると、彼はすぐ首を横に振る。
「いや。名前だけだった」
「はは、たまに言われます」
「でもいいな。上背があって。度胸もありそうだ」
「あります、やる気もあります」
「最高じゃないか」
声のトーンを変えずに浅く笑うオーフェンは、受け答えに安定感があった。
(こういうプリ、モテそー)
「いいな、彼、気に入った」
オーフェンが隣にそう言うと、イアーゼは「当然だ」と答える。
「じゃあ、さっそく皆に紹介して、打ち合わせをしたいんだが、この後は暇か?」
「あ、めっちゃくちゃ暇ッス」
持て余してるじゃないか、とオーフェンは愉快そうに笑った。レニの攻城戦参加は、すぐに決まったようだった。
ヴィアのギルドハウスは、宿からそう離れていない場所にあった。東側の小通りの一角にある道を挟んだ建物2つで、二階どうしが橋のように連結しているという、夢のある構造をした大きな家だった。こういった建物はプロンテラに多いが、実際、中に入ってみるのは初めてだ。連結部の下を通るときに、上を見上げながら「あの橋、渡れますか」とオーフェンに尋ねると、「あそこが談話室だ、今からそこにいく」と彼は答えた。毎日、あんなところで談話してるのか、とレニは感心する。
二階に上がると、橋の部分は思っていたより広く、向かいの建物の階段まで見渡せるほどの部屋になっていた。両側の壁に窓から光がはいってくる、見たことのない開放感の部屋だ。中央のテーブルでは、冒険者が4人で何やら話をしていたらしいが、レニたちが入ってきたことで視線がこちらに集まり、話は中断されたようだ。
長方形のテーブルの奥側に3人、手前に1人。何か尋問でもされているような配置だった。
「誤報だ、誤報。男だった」
4人に向かって、オーフェンがそう言った。
「ええ?!」と奥のハンターが驚いて、こちらに駆け寄ってくる。
「じゃあ、作戦会議は……」
「いらん、余計な心配だ」
「な~~んだ~~」
短く刈り込んだ水色の髪の上にオレンジのカラーサングラスをつけたハンターが、レニのほうへ飛び切りの笑顔で握手を求めてくる。
「いやあ~~歓迎、歓迎~~! 俺がギルドマスターのマシュー、こっちがオーフェン。あっちにいるのもギルメンね。おーーーい、みんな、レニくん男だったーーー」
マシューに案内されてテーブルに座らされたレニは、5人からの視線をあびて、とりあえず、がばりと頭を下げた。
「なんか、女の子って期待させたみたいで、すんませんッした!」
「いいのよ、男でよかったのよ! あー、マジで安心した」
「いや、ぜんぜん解決してないですからね? 今回セーフだっただけだからね?」
ウィザードの女が、マシューにそう訴えながら、テーブル向かいの金髪のプリーストを指さした。先ほど尋問されていた男だ。
「ツードさん問題は、ちゃんと管理しなきゃいけない大問題だから!」
指をさされた本人は、ゆっくりと煙草を吐き出しながら、落ち着いた調子で口を開いた。
「だから、もういいですけどね、俺。あらかじめ、ホモとか触れ回ってもらって」
「いやぁ、さすがに、それはちょっと……」
レニは隣のプリーストを見て、一瞬で思う。片目が隠れた金髪の前髪に、赤紫の瞳。気だるそうで、でもなんとなく懐の広そうな空気、そして驚くほど耳障りのいい声。
(やっべ、こっちのプリのほうがモテそー)
事情が読めないレニに、オーフェンがした説明はこうだった。
いわく、このギルドに最近入ってきた新メンバーが速攻で辞めた理由が「この金髪プリースト狙い」だったから、らしい。それが2人続いたことで、ギルド内ではちょっとした問題になっていた。そんなおりに、レニが季節外れの突然参加を希望したものだから、今回も危ないのではないかと作戦会議を練っていたということだった。
とんでもない話だ。
(やっぱ鬼モテじゃん、すっげー)
金髪プリーストは、ツイードと名乗った。
「空気読んで、俺もツイードさん狙ったほうが良いですかね」
女性2人は、レニの冗談にギャハハハと大ウケで、「レニくん、ツードさん好み?」と笑いながら聞いてくる。
「お姉さんだったら、どストライクッスね」
「恋人のいるお兄さんなんだよ、残念だけど」
前衛だから、GVではよろしくな、レニくん、とツイードは緩く笑う。
この男の手綱を握っているのがどういう人間なのか、ちょっと興味あるな、と内心で思って、けれどそんな些末な好奇心のことは全部なかったことにして、レニは笑った。
「よろしくおねがいしまーす!」
・・・
「濡れ衣なんだよ、完全に」
クレッセンスから来るという『ナイトのレニ』は、男だったらしい。まったく無駄な話し合いに付き合わされたと、ツイードは部屋に帰ってくるなりベッドの上に大の字に寝転んだ。
スルガは恋人の悪くなっていく機嫌をなんとか取ってみようと「コーヒー飲む?」と彼を覗き込んだが、ツイードは顔の横で手を振って投げやりな態度だ。
「いいよ、もう酒飲みたい」
「じゃあ飲み行く?」
「違う、それぐらいってだけで……」
腕で顔を覆っていたツイードだったが、天井を見上げて「いや、もう、それでもいいな」と言い出したから、気分は相当悪いらしい。
「買い出しも、レニくんいるしな」
「うん」
「飲んじゃうか、週初めの昼から。背徳的でいいな」
週明けの昼に酒を飲むことが、背徳的なのかどうかスルガにはいまいちピンとこなかったが、彼の機嫌が上向きになるのだったらなんでもいい。
「ギルドから費用出ないかな。労災だろ、もう」
「そんな労災聞いたことねえけど……」
「新設してもいい」
ツイードが交際を断ったことがきっかけで新人2人が辞めていったのは、一体どんな種類の労災になるのだろう。スルガとしては、多少自腹を切ってもいいからその労災に協力したい。
辞めた後で「モーションかけられてたから、緩く線引きしただけなんだけど」と恋人から教えられて、「言ってよ!」「あの女!」「ふたりも!?」「俺もなんか、……なんかしたかった!」という気持ちが複雑に絡み合って、スルガは結局、ろくな言葉をかけていない。
昔からモテる彼だが、ここ最近の引力はちょっと異常だ。若い時よりも数が増えている。
(かっこいいから、分かるけどさ……)
以前、『なんか思わせぶりなことしてない!?』と聞いてしまって、ツイードの地雷を踏んだスルガとしては、あまり余計な言葉をかけずに事態を収拾させたいところだ。
「他人ごとじゃねえからな、そっちも」
スルガがおたおたと次の行動に悩んでいるところに、ツイードの視線が突き刺さる。
「そりゃ、そうだよ」
「じゃなくてさ。WIZのほうは、どっちかっていうとお前狙いだった」
「え!?」
あのウィザードが、とスルガは彼女の記憶を脳の奥底から引っ張り出すが、髪が黄緑だったことしか覚えている情報がない。
「そ、……そうなんだ」
「絡んできたのは俺だったけど、お前の話ばっかりだったから。『あれ、相方じゃなくて彼氏だよ』っつったら、次の週には辞めてた」
「だったらそう言えばよかったのに……」
「アンナさんたちに? 余計ややこしくなる。巻き込まれたいの?」
「いやぁ……俺、わかんないよ、そういうの」
「分かんない彼氏を、守ったんだよ俺は。労災なくても、労われたいよなぁ」
ツイードがベッドに寝転びながらも、じとっとした目線でこちらを見てくる。だんだんとその視線の槍が顔に刺さりまくっていき、スルガは早々に降参した。
「分かったよ、俺が奢るよ。なに飲みたいの」
労災にカンパするどころか、完全に自分の支払いになってしまうが、それも仕方ない。今月の懐具合をスルガが頭の中で勘定していると、ベッドからやわい声がかかる。
「なあ、スルガ」
気づけばツイードが、起き上がりもせずに両手を広げてスルガを呼んでいた。
そこに近づいていくと、スルガの頭は抱き留められ、ツイードの唇がすいっとこちらの唇に触れてくる。
「……なに、どうしたの、急に」
スルガの問いにも碌に答えず、ツイードは浅く笑うだけだった。聞く気がない、遊んでいるのだ。スルガはどこか投げやりになり、今度は自分からツイードに口付けて、欲しいだけその唇を吸った。
何度も感触を確かめて、少し顔を持ち上げると、くっつき合ったものを剥がすように下唇が端からゆっくりと離れていく。それが完全に離れきる前に、また深く口付けると、乾き始めた唇が、また水分を取り戻す。この唇が柔らかく吸い付いてくるのは、ツイードが力を抜いているからだ。こちらばかりが強く求めて、返ってくる感触はやわく甘いのに、どうしたってもどかしい。
いくつになっても、何度重ねても、このキスの魔力だけはずっと衰えず強いままだ。
「正直さ、」
と、唇が離れた瞬間、間近でツイードが息を吸った。続きを止められて、スルガは半開きの口のまま「え」とそれに答える。
「俺、ちょっと妬けたよ」
どの口がそんなことを言うのだろう、とスルガは思う。けれど、『どの口がそれを』という事を言うときのツイードの表情は、いつも好きだ。
「……お前が言うの」
さらにスルガが口付けを求めれば、ツイードはそれに応えながらも、ふふっと笑った。
「辞めてくれて、ほっとしたかも」
嫉妬にかられるツイードの姿を、スルガは上手く想像できない。彼がその言葉を使うときは、いつも余裕があるように見える。けれど、わざわざ自己申告してくるツイードが、なんだかいじらしくて可愛い。自分の感情表現の乏しさを、愛嬌だけで全部カバーしているこのプリーストらしいやり方だと思う。それにすっかり嵌っているが、自分でも嫌いじゃない。
「ちょっとは普段の俺の気持ち、わかったろ」
「んー……」
ツイードは、やはりまだまだ余裕があるような態度に見えた。
そして彼は、とろんと甘い瞳でまっすぐにスルガを見つめながら、とんでもないことを口走るのだった。
「でも悪くないな、これも。背徳きわめたい」
「ええ……」
それが背徳と繋がっていることは、さすがのスルガにでも分かる。
2024.01.07