靄がかかる

 

 

(1)

 

 また、頭痛がやまない。


 砂糖蜜漬けのオレンジが何枚も乗せられているチョコレートケーキをショーケース越しに眺めながら、これはどこかで見た覚えがあると、ノウは口に手をあて、しばらく考えた。
 黒いチョコレートケーキに張り付いた、一枚の円。鮮やかなオレンジ。
 なんだか古い記憶だった気がして、古いのならば彼の記憶なのだと、思い当たる人があった。昔の上司にあたる、師、スオウだ。
 彼はガサツな甘党だったので、ケーキをホールで持ってこさせては、手づかみで食べていた。
 このケーキの色合いは、その時に見たものだったのだろうか。
 解からない。
 ただ、スオウのことを思い出すのは久しぶりだったので、ああ、そんな男も居たな、とノウはぼんやり彼のことを考えた。
 結局、何も買わずにケーキ屋の店を出る。


 スオウはノウに多大な影響を与えた男なのだが、普段は嘘のように思い出の中、影を潜めている。
 ノウに直接的な戦闘の技法を教えたのは、別の人間だったので、戦闘中も彼のことを思い出す機会は無い。
 スオウの影は、いつも唐突に出てきて、一瞬だけノウの思考を一色に染める。
『シナバモロトモダ』
 彼の最期の言葉だ。意味は未だに解からない。
 彼がなんと言って死んで行ったのか、言葉の意味にさしたる興味は無い。
 ただただ、その言葉が、数事の音が、頭をまわる。


 ノウは食事を取りに、昼の街にやって来たのだった。
 近頃はまた、体の動きが鈍い。
 仮眠から体を起こす瞬間に、頭の回転が遅くて、もたつく自分に苛々する日が増えていた。慢性化した頭痛も、いつからか戻ってきていた。
 仕方が無いので、固形物を食べようと思うに至る。
 以前、オルエと取った食事は悪くなかった。だからなんとなく軽い気持ちで、彼と再び席を共にするため、彼が設立したギルドの拠点がある宿屋に赴くことにしたのだ。
 ギルド、ユグドラシル
 近年、オルエが作った一時的なギルド。彼はそこのギルドマスターである。
 戦闘のエキスパートだけを集めた、対テロ特捜本部のようなギルドだ。アサシンクロスもロードナイトも馬鹿みたいに速く動くし、ウィザードやスナイパーの破壊力は天井知らず。間抜けな騎士団やアサシンギルドの手ぬるい連中などよりは、よほどノウを楽しませてくれていた。
 理想的な組織だが、しかしノウに取っては敵なので、食事を取りたい今は厄介な集まり以外の何者でもない。
 裏の窓から窺って、食堂にオルエの姿が無かったので、ノウは彼との昼食を諦めた。
 この宿に単身で入っていくのは面倒だ。


 近所にケーキ屋が見えたので入ってみるも、やはり食べる気が起きず、そのまま店を後に。
 さてどうするかと考える気持ちが半分、スオウに頭を引きずられる気持ちが半分。
 調度そのとき、以前オルエに会った時、彼と一緒に歩いていたアサシンクロスの男を見つけた。人通りの少ない道を、銀色の頭が横切ったのだ。
(あれ、あの男)
 前にあの男を見た時も、なんだか古い記憶をくすぐられる気分になったのだが、スオウの事を調度思い浮かべていた今のノウには、彼のことが自然と思い出された。
(アサシンギルドにいた…)
(長い髪の、男が連れていた)
(目隠しのアサシン)


「……サユ?」
 アサシンクロスの男は、ノウが声を発する前から、こちらに気づいていたようだったが、ノウが彼の名を呼んだことにピクリと視線を上げた。
「あー…サユか」
 スオウが自分を連れていたように、アサシンギルドの――特に深層本部の――アサシンは、弟子のように自分より若いアサシンを一人、抱えるシステムがあった。独学で学べる動きには限界があるからだろう。誰が決めたわけでもないが、いつからか、自然とそうなっているようだった。もちろん、誰も抱えないアサシンも多く居たわけであるが。
 サユは、幹部に名を連ねる一人の男に連れられていた少年だった。
 少なくともノウの記憶の中での彼は、少年だ。
 自分と同じ、大人ではない存在だったので、覚えている。
 背もまだ一般的な身長より低く、白髪。そして両目をふさぐように、布で覆っていた。
 オルエといる彼を見た時、まず赤い目が印象的すぎて、気付かなかったのだろう。彼は確かに、あの少年だった。
(立ち方が、師匠の男に似ている)


 サユは、声を掛けられても返事をしなかった。
 しかし立ち去る事もせず、足を止めたままこちらを見ていた。
「なんで、オルエと」
 彼がどうしてアサシンギルドから離れ、こんなところで、一般の冒険者のような顔をしているのか、ノウは率直に不思議だと思った。
 真昼間のプロンテラの一角だ。
 突然、オルエの名を出され、サユは会話の流れが掴めないようだった。
 いや、もしかすると、初めからこちらの会話に乗る気さえ無いのかも知れない。
 呼び止められた理由も、自分の名前も知る理由も、彼には解からないのだろう。
(覚えて居ないのか…)
 彼の記憶の中には、ノウが明確な個人として登場しないらしい。
 あの日の彼は、目隠しをしていたので、当然と言えば当然だが。
(てっきり、盲目なのかと)
 傷ついて、使い物にならなくなった目なのかと、思っていたのだが。
 サユの眼は、流れる血の色をそのまま映し出したかのような、鮮やかな赤だった。瞳の色は、周りよりも僅かに白く靄がかかったような色をしている。

 あの頃の彼は。(あの頃の僕は)
 彼のような身長だったのだろうか。自分の外見に対しての客観的な記憶は無い。
 自分はあくまで自分だったので。
 自分が出来ることと出来ないことをはっきり解かっていれば、それらを他者と比べることは必要なかった。
 ただ、あの頃の(あんなに未熟だった)彼が、ここまですらりと背が伸び、筋肉をつけ、佇んでいるというのだから、あの頃から、それだけの時間が流れたということなのだろう。
 その時間は、同じ分量だけ、ノウにも訪れたということになる。
(実感が沸かない)


 スオウが死んでから、どれだけの時間が経った?


 アサシンギルドの内乱で、何人もの幹部が死んだ。スオウの遺言で、ノウはギルドマスターになった。あの混乱で、残った暗殺者たちも何人か抜けて行った。おそらく、サユの師匠だったあの男も、その時に、
いや、待て。


『シナバモロトモダ』
 擦り切れるほど再生されている記憶が、また脳をよぎる。
 スオウは、そう言って、屋上から夜のモロクへと飛び降りた。右肩から先は無かった。左腕には、男を抱えていた。
 相撃ちだった男。自らの命と引き換えに、スオウを瀕死に追いやった男。いや、スオウはほとんど死んでいた。死んでゆく最中だった。
 スオウの利き腕に抱かれ、スオウの愛刀だったカタールが突き刺さったままだった男。
 そうだ、あれは、あの男だ。
 サユを連れていたのは、あの男だった。
 あの男は死んでいる。スオウと共に、モロクの砂嵐に消えた。


――ああ、だから、彼は、こんなところでオルエのギルドに。
 時間が流れたのだ。
 あの頃から随分と変わった。
 あの男の一派であったならば、残党を狩った覚えがあった。
 サユはアサシン組織を逃れてプロンテラに来たのだろうか。
 それならばたぶん、今でも組織に追われているはずだ。
(だからオルエに)

 

 師匠を亡くし、組織に追われ、わけも解からず走ったろう。
 サユのまとわせている空気は、随分と静かで、けれど押し殺した悲痛な死臭がした。この男は、間違いなく、「死」を知っている。
 逃げる恐怖と、追う恐怖を。
 師を亡くしたのならば当然だ。そしてオルエに。
 当然、経験する。当然、学ぶ。
 当然。
 いや、当然か?


 彼がこの場所にいるのが当然ならば。
 ならば何故、あの時、同じくスオウを亡くした自分は、
 今、こんな街で、こんな毎日を?

 

「サユ」
 再び呼ばれ、サユは逸らしていた視線をノウの瞳に戻した。
「ご飯を食べよう」
 頭痛はやまない。ノウは何故か微笑んでいた。
 しばらくして、サユがこくんと、動かしたかどうかもわからないぐらいの動作で、うなずいた。

 

 

 

(2)

 

 黙って付いて来たサユを先に座らせて、ノウはいつもの通り、サラダ全種とチキンソテーを頼んだ。
 この前、オルエと入った店とは別の場所だったが、宿屋の一階でやっている似たような食堂だ。
 なんのために彼が自分に付いて来たのか。断って、立ち去ってしまうことは簡単だったろうに。何もノコノコと、敵だと解かっているアサシンクロスに付いて来ることはない。
 サユの顔は表情が読み取りにくく、それゆえ彼の行動の意図は不明確だ。
 けれど、ノウは自分の行動について文句を言われないことに慣れていたから、さして気にならなかった。
 従うのならば、それに越したことはない。


 サラダが届けられ、ノウが食物を口の中にしまい始めてからも、サユは一言も口をきかなかった。黙ったまま、こちらを見ているのか、上の空なのか、どちらともつかない視線を投げかけて、固まっていた。
 机に置かれた両腕は、程よく硬く、程よく締まっている。
 肩口に見えた鎖骨のラインを眺めて見ても、確かにサユは大人の男だ。
 ノウはもう一度、記憶の中の少年だったサユを思い浮かべる。
 栄養が足りてないとしか思えなかった細い手首と足首。細い髪の毛と白い肌は、少年を病弱に見せた。小さく、未完成な肉体が、彼をアサシン未満にと足らしめていた。
 頭数にも入らない餓鬼だと、眺めていた自分は、思ったはずだ。
 しかし、自分だってあの頃は、彼と同じく、年端の行かない少年だったのではないか。
 自分が子供であると全く意識していなかった為、その感覚には違和感があったが、今を思い返してみるに、ノウだって背が低かったに違いない。
 そういえば、スオウはよく、自分の頭を触っていた気がする。
 自分の目線より、彼は上にあった気がする。


 カタールの届く範囲の物ならば、なんだって切り裂けたから、自分の腕の長さは誰より知っていたつもりであったのだけれど。
 記憶の中の世界は、自分の映像だけにぽっかりと穴が開く。
 あの時の自分はどんな風体だったろう。
 あれから、自分は変わった?
 あの頃から、一体どれぐらいの時間が経った?


 スオウが死んでから、どれほどの時間が?

 

 ノウの思考は、スオウの記憶を思い出す時よりも、強く激しく同じ場所をループしていた。回転の速度に、自分の思考が付いていかない。めまぐるしく、不自然な記憶たちが通り過ぎて行く。どの記憶にも、客観的に自分を見下ろす映像は無い。(――当たり前だ)

 


 あの少年が、成人男性になったのだ。
 サユが。
 下手をすれば、オルエより男らしい骨格をしているかも知れない。
 薬を噛み締めるように、ノウはサラダを歯で噛み切る。


 サユはずっと黙って、ノウの食事を見ていた。
 ノウは途中で、サユに空豆シチューを頼んでやった。
 シチューはすぐに届き、サユの目の前に置かれた。
 それからしばらくも、ずっと彼は無言だった。


「食べなよ」
 チキンを切り分けながら、ノウはサユのほうを見ずに言う。
 それでもサユはスプーンを手に取らない。
「いいから」
 今度は顔を上げて、そう言ってみせる。
 するとサユが、ゆっくりとした動作で、右手にスプーンを握り、先端をシチューにつけた。
 そのスプーンが、普通と少し違った持ち方だった。中指まで、スプーンを支える位置にまわっている。
 筆を持つみたいな手付きだと、ノウは思った。
 しかしサユは、筆などいうものを知らないかもしれない。


 無言の時と同様、サユは音一つ立てずに、シチューを食べた。
 チキンを噛み、飲み込みながら、ノウはサユがその食物を食べているさまをじっと見ていた。
 先ほどから彼は、液体に浮いたものしか食べていない。スプーンをひたす部分が妙に浅いせいだ。お陰で口に入るものと言えば、空豆と、薄いたまねぎのスライスと、バジルぐらいなものであるようだった。
 まるで、ジャガイモとニンジンには興味がないというように、皿の中央部分の上澄みしか、サユは掬わない。
 オルエは、もっと、美味そうに食った、と、ノウは視線を一度サユから外した。
 オルエはあんなに美味そうに。
 けれどサユは違う。
 おそらくサユは、今も昔も、食べることに関心がないのだろう。
 支障がないのならば、おそらくノウだって必要以上に食事のことを考えたりしない。
 しかし、オルエとは違い、美味いと心から感じもしないくせに、食べることを強制されても嫌そうな顔ひとつしない、この彼の態度は何だ。
 不快ではないのか。
 どうでもいいのか。


 一体どんな物が彼の体をここまで成長させたろう。食物ではないのか? 違うとしたら何だ。
 あの頃の、細いだけの少年と、今の彼は違う。
 感情も、解き放たれたせいで濃度が希釈されていったようだったあの日の彼とは違う。あれはただの放心だった。拡散していく精神に、彼が抗わなかった――或いは、抗えなかった――だけのこと。
 今の彼は、ぐっと自分の元に、自分の匂いをひきつけて離さそうとしない。だから彼からは彼の生活や感情が香らないのだろう。収束し、収縮し、じっと辺りを、慎重に伺っている。闇雲に恐れるのではないから、警戒はばら撒かないままに。息をひそめ、鳴りを潜め、微動だにしない。サユは恐らく、速く動ける。飛ぶように、一瞬で、喉元に到達できる。
(あんな子供が)


(あれから何年が経った)


 記憶に靄がかかる。
 退屈な毎日だった。長く長く、惰性のように続く日々だった。
 なのに今からしてみれば、瞬く間に過ぎ去った時間だったように思う。
 スオウがこの世から消えて、(あの硬くて痛いギルドマスターの椅子に座ることに飽きて、)
 モロクを出、プロンテラで寝泊りを始めて、いつも通り、人をからかったり、ワルツのステップを踏む毎日を。
(何年?)


(僕はあれから、何年過ごした?)
(いつからここに?)
(いつまで―――)


 不自然な食べ方をしていたはずのサユが、もうシチューを飲み干そうとしている。
 いつのまに具をたいらげたのか、ノウは見落としてしまった。
 チキンは半分残っていた。
 サラダも一皿、手をつけていないものがあった。
 けれどノウは立ち上がる。
「帰る。御代は置いてくよ」
 財布の中に入っていた札を何枚か抜き取り机に置いた。木の感触が、異常に細かく、指先に伝わる。
 恐らく紙幣一枚でも、代金には多かったろう。かまわない。指に当たった枚数を抜いただけだ。
 振り返らずにノウは出口へ向かう。
 サユはもちろん、引きとめなかった。
 そして別れる最後まで、一言も、声を発しなかった。

 

 

2008.09.04