炊き出しの日(あるいは、休館日)

 

 建物の外に出ると、時刻は既に昼も暮れかけのころだった。もう少しすれば、赤や黄や緑のグラデーションが空に描かれる首都の夕焼けが見られるのだろうが、オーフェンが自室にまで移動する間にはそのような美しい時間は訪れない。今、頭上にあるのは、ただ採光を欠き白っぽく濁った空だけであり、昼の活力を失ったばかりか夜の魅力が得られていない半端な合間の時間そのものであり、そこに立っているしかできないひたすらに矮小な自分だけなのであった。
 まったくの徒労に終わった一日だ。他人の要件に振り回される朝から始まって、自分の用事もろくに手につかない昼が過ぎ、もうほぼ終わりかけの日暮れに差し掛かっている。外からやってくる問題事を片付ける順番が自分で選べるだけの日のことを、休日と呼ぶのはいい加減にやめるべきだ。ため息交じりに皮肉なことを考える。オーフェンだって、この後の夜の時間を完全に自分の思い通りに過ごせるのなら、こんなくさくさした気分にならない。でもそうはならないに決まっている。こういう一日の夜はいつだって、朝昼に続く厄介ごとに振り回される夜になるのだ。
 露店通りの賑わいを避けるために迂回した道で、オーフェンの視界に見知った顔が映った。王立図書館の入口の前に、目立つ緑髪のウィザードが立っている。同盟ギルド・クレッセンスの新人で、名前は確かジェン――ジェナードだ。記憶の中の人物図鑑から名前を引き当ててから、オーフェンはもう一度彼を見た。両扉がしっかりと閉ざされた図書館の入口の前で、ジェナードはなぜかドアの上を見ていた。彼の視線はゆっくりと下に降り、さらには何かを探すように左右に振られた。オーフェンは通りがかりついでに彼の側に寄った。
「休館日だぞ」
 突然、声をかけられて、ジェナードは相当驚いたらしく両手の本を引き寄せてこちらのほうを振り返った。しかし自分に声をかけたのがオーフェンであることを認めると、途端にその顔から驚愕の表情を消し、澄ましたいつもの落ち着きを取り戻す。
「こんにちは」
「ああ」
 礼節を欠くことなくジェナードは挨拶をし、オーフェンはそれに応える。そのころにはオーフェンの歩みもジェナードのすぐ隣にたどり着いていた。王立らしい豪奢な葉模様の細工がほどこされた木製の大扉は、無情ともいえるほどしっかりと太いチェーンで施錠されている。
「閉まってるのを知らなかったのか?」
「休みは第三曜日だと聞いていて……」
「教会の炊き出しがある週は、代わりに次の日が休みになる」
「え……」
 オーフェンはジェナードの手に持たれた分厚い三冊の本に目をやった。一番上の本の表紙には見覚えがある。詠唱学の記述書だ。ギルドの狩りもない日にこういった手合いの本を読む勤勉ともいうべき人間に対して、オーフェンは少なくない共感と同情を覚える。ギルド合同の飲み会でも数人を交えて彼と話したことはあるが、その時の印象ともその本の中身は合致していた。ようは真面目なウィザードなのだろう。そして、何故か平素をこう実直に生きている者に限って、重い本を運んできた先が閉まっているというような不運に見舞われるのだ。
「出身はゲフェンだったか」
「あ、…はい、そうです」
「あそこが塔の都合を町の生活の最優先にするみたいに、プロンテラでは教会が何もかもを捻じ曲げて優先されるんだ」
「はあ……そういう、ものですか」
 言ってしまってからオーフェンは、まだ二次職になってから数年しか経っていないだろう冒険者に、自分のような年の離れたプリーストが聞かせるにしては少し冷笑的すぎる話だったか、と内省した。
「すまん。俺もゲフェンの出なんだ。……年々、あっちの嫌な老人の喋り方に近づいている気がするな」
「え、そうなんですか。全然、そんな感じは」
 ジェナードは否定したが、それすらも言わせてしまった社交辞令の一環になった気がして、オーフェンはこれ以上自分が彼に関わっても彼にとって利がないことを悟る。自分自身が、この青年に見舞われる『不運』の一部になってしまっている。
「本を持って帰るのが重いなら、教会に行くといい。仮の返還箱があるから。炊き出し受付のプリーストが預かってくれるはずだ」
 へ、と小さい声を漏らしてジェナードがオーフェンを見上げた。
「俺は教会からの帰りだ。まったく、お互い災難な一日だな」
「ああ、そうだったんですね。……お疲れ様です」
 ジェナードは、嫌な顔ひとつせず、かといって喜んでいるようには見えない顔のまま、「じゃあそっちに行ってみます」と言った。彼はどうにも表情が乏しい。オーフェン自身はむしろ好ましい落ち着きだと思えたが、多くの人間にとっては、どうだろうか。誤解されて損をしてしまいかねないだろう。けれど、やはり自分がこの若者に対してしてやれることは何もない。そのもどかしい気持ちを押し殺し、オーフェンは唯一自分が出来る『この場から立ち去る』という選択を取ることにした。
「じゃあな。また、飲み会で。今度はその本の話でもしよう」
「あ、はい。……ありがとうございます」
 軽く手をあげ、元来た昼下がりの曇天の道にオーフェンは戻っていく。
 もしかすると、声を掛けたこと自体が、余計なお世話だったのかもしれない。100人規模のギルドのサブマスターという現状の肩書では、些細な親切心が、ともすれば暴力的ですらある圧力になってしまいかねない。厄介なものを背負ってしまったと思う。
「あの…!」
 ほとんど離れかけた頃、オーフェンの後ろからジェナードの声が掛かった。歩きながらちらりと振り返ると、彼はこちらを見ながら、焦った調子で声を張ったようだった。
「楽しみに、してます…!」
 オーフェンは思わず微笑んだ。それまで考えていた自分と彼の間の年齢や立場的な差による配慮は杞憂だったようだ。
「ああ、楽しみだな」
 そう若いウィザードに遠くから返答をし、オーフェンは今度こそ岐路についた。
 ほとんどが、くたびれるばかりの毎日だ。けれど味気ない日常に、美しい未来の欠片を見つけることもある。

 

 

2024.03.10