5-4
宿は、酒場と目と鼻の先にあった。
古いがシンプルな造りの安宿で、入口の掲示板以外は壁に何もかかっておらず、カーペットすら敷かれていない。
ツイードの借りている部屋は、三階の廊下の突き当り右手側だ。
狭く長い廊下を歩くツイードの後ろを、スルガは黙って付いてきた。酒場からここに来るまで、会話らしい会話はない。
預かりっぱなしの鍵でドアを開けている途中、とりあえずの礼儀でツイードはスルガを振り返って言った。
「まあ、散らかってるんで、申し訳ないんですけど」
「あ、い、いえ」
制止するように両手を振って見せたスルガの声は、少しだけ上ずっていた。頬が赤い。
(これって、期待させてるよなあ)
酒場でするような話ではないかと変えた場所だったが、話の内容からいって、こんな時間にこんなところへ誘うのは酷だっただろうか。
ドアを押し開けて、スルガを中に迎えながらその後姿をツイードはぼんやり眺める。
相変わらず、形のいい背中だ。
ツイードは部屋のランプに明かりを灯し、それを壁に掛けた。その間中、部屋の中央で不自然に立ち止まっていたスルガが、しばらく部屋の荷物を見ながらぽそりと呟いた。
「紙、多いですね」
紙? ツイードはスルガの視線の先を追う。
部屋の隅にある小さなデスクやその周辺に積んである本たちのことだろうか。確かに書きかけの書類は放り出されているし、読みかけの束が本の間にも挟まっているし、机上に収まらない雑誌の類は縛って床に置いたままになっているから、紙と言えば紙なのか。
そんな表現をする人間をツイードは初めて見たが、この部屋に他人を入れたのは初めてだから、それが変わった感想なのかどうか推し量るすべはない。
「すみません、片付け苦手で」
招くことを想定としていない部屋だったから、いくつか服も掛けたままだったし、窓際のテーブルには保存食や道具が置いてあるままになっている。
そう言えば、この部屋には人を座らせる場所がない。
「あー…まあ、適当に、この椅子でも使ってください」
デスクについた小さい椅子をテーブルの隣に運んで、ツイードはスルガに席を勧めた。上にある荷物をまとめてどかせてから、買ってきたビール瓶をそこに置く。
元々、ベッドサイドテーブルとして使っていた机だったから、ツイードはすぐ側のベッドに腰おろした。
椅子に腰かけたスルガは、何故か足を揃えていた。
「ツードさんの部屋って、こんななんですね」
「え」
周りを見るスルガへ、ツイードはビールの栓を抜いてからそれを渡す。
「なんか変ですか」
「いや、なんも変じゃないです、普通です。でもツードさんの私物がいっぱいあって……いや、普通なんですけど、それも」
彼の言わんとしていることは分かる。
けれど、今ツイードが頭の中で巡らせている別れ話の切り出しと、スルガの喋る内容はどうにも乖離しすぎていて、なんだか現実味がなかった。
ツイードは、自分のビール瓶を片手に持ち、おもむろに一口だけ飲み込んだ。さっきのワインより味がしない。
「ツードさん」
スルガが少しだけ改まって、自分の名を呼んだ。
視線だけ上げると、彼の目の意外な引力に捕まって、ツイードは目が離せなくなった。
「これって、キスとかしても、いいやつですか」
スルガはこちらを伺うように、淡く柔らかい笑みを見せる。
彼の声の響きが、甘い。
ツイードは『しまった』と思う。
これは考えていたより軽率で残忍な行為だった。彼の期待をまた断ち切らなければならない。もうスルガを無闇に傷つけるのは終わりにしたかった。
早く言わないと。
ツイードは一度唾を飲み込んでから、口を開く。
「別にキスぐらい、いつでもしていいんですけど、でもさ」
ツイードの言葉に、スルガが「え」と照れたように表情を止めた。違う。頼むから最後まで聞いてくれ。止まらずに続けて動かす口からは、乾いた声しか出なかった。
「俺、たぶん、スルガさんの恋愛に、応えられないんですよね」
スルガはしばらく、言葉に迷っていたようだった。それから、散々悩んで、彼は一度開いた口を、何も発しないまま閉じた。
スルガの顔が見れなくなって、ツイードは視線を床に逸らせる。
「スルガさん、俺に付き合うの、勿体ないと思いますよ」
「……何が?」
ようやく聞けたスルガの声は、慎重さと不安さに揺れている。
「何っていうか。時間とか…。感情とか、親切さ……とか」
勿体ないという単語は、不適だったかもしれない。もっと根本的に、こんな関係はやめたほうがいいと思える根拠がツイードの中には確かにあるのに、それが上手く言葉になって出てこない。
スルガは何度か、首を振った。
「そんなこと……絶対ないです」
椅子に座っていた彼が、立ち上がってツイードの側に寄る。座ったままの自分に少しかがんで、彼はこちらの目を見ようと体を傾けた。
「俺、ツードさんと付き合ってて、前より好きに……なってる気がします。だから別に、今すぐ応えられないとか、そういうことは、どうでもよくて」
(…違う)
たぶん、彼はこの話を、セックスのことだと勘違いしている。
でも、その観点から言っても、自分の結論は同じだろうとツイードは思う。
だったら彼の分かりやすいほうの話で構わない。
「スルガさんは、結局、俺とヤりたくなんないんですか」
ツイードがスルガのほうを向き直り、その目を見て言うと、スルガは身体を少し後ろに引いた。
「な」
目が僅かに見開かれ、羞恥に歪んだスルガが視線を窓に逸らす。
「……りますけど、……そういうのは、俺のほうだけじゃ…」
スルガが、ツイードの前でそれを認めたのは、初めてだった。
でも彼の口から直接聞こうが聞くまいが、ツイードには分かっていた。
スルガの目。
強く、劣情を携えた瞳。その視線の奥にはきっと、触れると熱いぐらいの感情がある。全部、自分に向けられた、熱量を持った感情だ。
彼は自分を抱きたいのだろう。
そんなのは、キスをしたときから、ずっと知っていたことだ。
そして自分は、それに応えることに、根本的な拒絶を感じている。
相手が誰であろうと、絶対に、自分は誰かに抱かれたりしない。その意思は何があっても変わらないだろうし、誰にもその尊厳を踏みにじられたくなかった。
「でも俺、たぶん一生その気になりませんよ」
断れば、スルガがまた、あの顔をすることは分かっている。
このまま付き合い続けていれば、これからずっとスルガをそうさせる。
そのたび自分は悪者になって、スルガは踵を返し元来た場所に戻っていくんだろう。
心がザリザリする。
もう、うんざりだ。
「スルガさん、一生できなくていいの、セックス」
言葉はもう宣告に近い。
それでスルガが、そんなのは嫌だと言い出せば、それで好都合だと思えた。彼が自分で気づいて、自ら離れていって欲しい。ツイードの卑怯さに軽蔑して、二度とこちらに踏み込まないで欲しい。
窓の外から、ガラガラと車輪が回る音が聞こえてくる。
プロンテラの夜は暗くて静かで、遠くの気配だけが騒がしい。
会話には間があった。
しばらくして、スルガがゆっくり口を開いたのが、ツイードの視界の隅に映った。
「どうしてですか」
彼の声色は、平坦だった。思いのほか落ち着いたその声に、ツイードは彼を見上げた。
その表情からは、何故か戸惑いの色が消えている。スルガは正面にツイードを捉えて、強い目でこちらを見据えていた。
「逆に、ツードさんはいいの、それ」
「なにがです」
「一生、セックスできない人生」
なんで、と尋ね返しそうになって、ツイードは言葉を止める。
そんな発想、考えつきもしなかった。
そして今考えてみて、そんな人生、たまるか、と強く思った。一生誰とも手を取り合わず、肌を重ねず、夜を共にしない。永遠に暗い夜のまま、溝に落ちたドブみたいな人生だ。
(冗談じゃない)
しかし、ツイードは同時に、自分の矛盾にも気づき始めた。
自分の言った言葉の意味は、つまりそういうことだ。
スルガがセックスできないなら、恋人である自分も一生できないのだ。思いつきもしなかった。なぜ、初めからそれを考えなかったのだろう。
抱かれたくないという確定意思のことは、誰より自分が一番理解していたはずなのに。
つまり付き合うという約束を違えない限り、そうあり続ける。
自分はどうしたってできないことで、スルガがそれでもいいと言って、この付き合いは始まった。
スルガが一歩、ツイードの側に寄った。その歩みに、床がギ、と音を立てた。
彼は右手をのばし、そして、ツイードの左腕を服の上から握りしめた。
「………俺は、ツイードさんが恋人なら、一生できなくても、いいです」
スルガの目が、今にも泣きそうなように、ツイードには思えた。
(この人は最初から、そう言っていたんだな…)
ツイードはそれに今更気づいた。
あの告白は、そういう意味だった。
別れたくないと、きっと言われるだろうと考えていたはずなのに、実際のスルガを見てしまうと、上手く息が吸えなくなる。
「ツードさん、俺のこと好きになんないの…?」
いつの間にか、ツイードのもう片方の腕も、スルガの手に捕まれていた。
縮まった距離に、声の音はどんどんと小さくなっていく。
スルガの両手に、ぎゅっと力がこもった。
俯いた彼が、小さく、心もとない声を漏らす。
「俺のこと、好きになって…」
彼の声は擦り切れそうだ。
ツイードの咽喉は、締め上げられたように引き攣って痛くなる。
体の中で、心臓がバクバクと動き始めた。
胸の鼓動が痛いぐらい音を立てている。
脈拍が、耳でも感じられるぐらい、激しく。
体中が熱い。
(こんなの……)
今、自分は、大きな岐路に立っている、とツイードは思った。
頭は熱いのに、背筋だけは異様に冷たい。
その選択の答えに、手を伸ばすのが恐ろしかった。
(俺は……)
たぶん、この痛さは、心の渇望だ。そんなもの要らないと拒絶していたのに、本当は奥底から求めていたものが、たぶんこれなんだろう。
いや、分からない。
自分がどうなっているのか、どうなってしまうのか。何も。まったく分からない。
顔を上げてくれ、とツイードは思う。
目の前でスルガが、詰まった息を吐くのが、苦しくて仕方ない。
もう、こんなのは、嫌だ。何を捨てたっていいなら、自分が捨てようとしていたものは、全部間違っていた。
これ以上、この人が傷つくのが見たくない。それを見て、自分が傷つくのだって、まっぴらだ。
そんな人生、自分が本当に望んでいたものじゃない。
この人が欲しい。
別れるなんて、間違っていた。
「俺はたぶん……」
ツイードは息をのむ。言おうとして開いた唇が、微かに震えているかもしれなかった。力の入れ方が、もはや分からなくなっていた。
「もうとっくに好きなんです、スルガさんが」
スルガがゆっくりと顔を上げた。
彼の眉は寄せられ、口元は薄く開き、声が出ないようだった。けれどその顔には、確かに、安堵の表情が浮かべられている。彼の瞳に、自分の顔が映っていた。
「ごめんなさい。好きです、スルガさん」
自分はずっと、これが見たかったのだととツイードは気がついた。