微力(10)

 

 

 

6

 

 コンコン、とノックされたドアの音は、おそらく非常にささやかだった。

 けれど意識の覚醒まぎわだったスルガは、その音にガバリと飛び起きる。他人の気配だ。視線はほとんど無意識にいつものテーブルを探す。

 テーブル――がない、いつもの位置に、カタールがない。ナイフは? 咄嗟に枕の下へと手を差し込むが、柔らかな布以外の感触が無かった。ない。やばい。何が? どうしよう。どうして何もない? 昨日自分は――

 

(…………ちがう、ここ、俺んちじゃない)

 

 混乱する思考のまま、スルガが辺りを改めて見渡すと、そこは陽の光がさし込む見覚えのない部屋だった。

 昨日は夜に来たせいで、室内の雰囲気ががらりと変わって見える。

 ツイードの部屋だ。

 

 コンコン、と再び、ノックの音が響く。

 

「あの、ツードさん」

 隣で眠ったままのプリーストへ、スルガはおそるおそる声をかける。

「ひと、来てます」

 反応がない。

 慌ててスルガが肩を揺すると、渋々といった具合にツイードは声を出した。

「……ン」

 けれどそれはほとんど唸り声のような音でしかなく、ツイードの眉間にはみるみる皺が寄り、彼は布団を手繰り寄せて壁側を向いてしまった。

「え、ちょ、ツードさん?」

「……」

「え!? ツードさん?」

 

 三度目のノックの音がして、スルガは仕方なくベッドを下りた。彼の部屋の扉を、許可なく開けることに抵抗はあるものの、部屋主がああでは他にどうしようもない。

 ドアの向こうにいたのは、ブラックスミスのビジャックだった。

 

「早い時間にごめん。俺、今日、溜まり場に寄らないからさ」

 頼まれていた物だ、とビジャックはスルガに荷物を手渡した。彼はツイードの部屋から出て来たのが本人ではなくスルガだったことに、まったく何の驚きも見せなかったし、そのことについて話題にすらしなかった。

 スルガが受け取った紙の包みは、大きさの割にずしりと重い。中身はおそらく本だろう。

「それから、こっちは転売たのまれてたやつ。利益の六割」

「あ、はい」

「またよろしくどうぞ」

 小さな布袋を受け取って、スルガがビジャックと顔を合わせると、

「……って、言っといて」

 と、彼は初めて、ツイードに向けた言葉ではなく、スルガに向けてそう言った。

 

「お、起こさなくても?」

「いいよ、どうせアイツ起きないだろ」

 あ、そうなんだ、とスルガは思ったが、同時に「そんなことあるか?」という気もした。

 

「居てくれて助かった」

 ビジャックはそうスルガに礼を告げ、家主の顏も見ずに帰って行ってしまった。

 ぽつんと、玄関にスルガは残される。

 

 立ちすくんでいても仕方ない。預かった荷物を、とりあえずテーブルの上に置き、スルガはベッドに戻って腰を下ろした。

 布団の膨らみからはツイードのきれいな金髪が覗き、それが陽の光を受けてちらちらと輝いている。

 

――スルガさん……っ

「……!」

 突然、脳裏に昨夜のツイードがよぎる。

 スルガの血流は興奮を取り戻したように、バクバクと胸を鳴らしていた。

 彼の目にかかるあのきれいな金色の髪。少し前までは遠くで眺めているだけだった。

 

(……俺、昨日、この人と寝たんだな…………)

 

 改めて考えると、とんでもない事実だ。そんなことが可能になった現状が、なんだか信じられない。望んで、避けられて、渇望して、拒絶され――ていた事が、けっきょく昨夜、できてしまった。現実に実感がない。

 足元がふわふわしている。記憶もなんだか、あやふやだ。

(でも、めちゃくちゃエロかった。あんま覚えてないけど、すっげーエロかった)

 

 昨夜の記憶をさぐればさぐるほど、段々と冷静さが蓄積されて、恥ずかしさが増していった。

(俺、マジでツードさんとヤったの? っていうかさっき、ビジャックさん来たけど、あれ、思いっきりそういう感じって、分かっちゃった、よな……?)

 あのブラックスミスは自分の見聞きしたことを無闇やたらと言いふらすような男じゃない。いや、言いふらされたって、別にいいはずだ。何もやましいことはないんだし。そう考えなおしはしたものの、スルガの頭の片隅には、なにかもやもやした感情が残る。

 

(でも、ツードさんのそういうとこ、知られんのが、なんかやだな)

 ツイードが、誰かと寝てるなんて、そんなこと誰にも知られたくない。

 

 スルガだって、まさかツイードが周囲の人間から『今まで一度も性体験がない』だとか、絶対そんな馬鹿なこと思われていないということは知っている。そう、ツイードがセックスしていることなんて、みんな知っているのは分かっている。

(みんな? みんなって誰)

 知らないけど。知らないけど、知っているに違いない。面白くない気分だ。

 自分以外、世界中の誰も、ツイードの色気に、気づかないで欲しい。誰も妄想しないでほしい。どんな風にキスするのか、だとか、どんな顔で服を脱ぐのか、だとか。あんな煽情的な彼の姿なんて。自分以外、誰も。

 

(世界で初めて俺が発見した……ってことに、できないかな、今から。なんか、機密事項とかに、なったりしないかな……)

 

 馬鹿げた考えだ。隣で眠ったままの彼に知られたら、きっと笑われる。

 スルガは、きれいな金髪の後ろ姿を眺めながら、世界一無駄なことを考えている。その金色の髪は、頭の頂点から、美しく重力に沿って流れていき、枕で一度、折れ曲がり、また流れてゆく。

 この光景ですら、情事の後の特権なのではないかと思えるスルガの思考回路は、いつまで経っても冷静さを取り戻せない。

 

 誰にも知られないのが無理なことぐらい、自分が一番よく分かっている。

 

(だってこの人――なんかもう、オーラがすでにエロいもんな……)

 

 ツイードの起きる気配はない。

 なんだか悶々とした感情のまま、スルガは陽の当たる彼の部屋に一人、取り残された気分だった。

 

 

 

 

 

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