夢の中の彼


 時々、まだ、どうしようもなく兄の夢を見る。

 繰り返すせいで、現実でもないのに記憶の一部になってしまった夢だ。「またあの夢だ」と夢の中でも分かる。

 分かるのに、どうにもできない。

 その無力さが、幼い頃の感覚の一部に、妙にリンクして、だから不思議な納得感がある。理屈も何も通っていないのに、すとんと腑に落ちる感覚だ。

 

 夢の中の兄は、いつも暴言を吐く。

 自分に向かって真っ直ぐに。正面から、目も逸らさず、はっきりとした発音で、自分に罵詈雑言を浴びせる。冷静に、淡々と。まるで何かの作業のように。

 同じく、作業であるかのように、自分はそれを黙々と聞いている。お互い立ったまま、或いは自分だけが座ったまま。向かい合って、自分を静かに罵り続ける兄の姿を、じっとみている。

 

 本当は、兄がこんなことを言うわけがないと分かっている自分がいる。だからこれは夢だ。じっとその顔を見つめすぎて、だんだんと兄の顔のつくりが分からなくなってくる。彼はこんな顔をしていただろうか。こんなことを兄が現実で言っているところを聞いたことがない。なのに、確かに目の前に居るのは兄であると解かる。

 

 兄の言葉は止まらない。

 自分は止める手段を知らない。止めることを放棄している自分がいる。聞いたこともないような酷い暴言なのに、自分でも驚くほど動揺していない。真っ直ぐに向けられる悪意を、ただ真っ直ぐに受け止めている。

 『こんなに長く兄が自分に向かって何かを言うことも久しく無かった』とか、『兄の声はそういえばこんな風だった』とか、頭の中では、どこか俯瞰した感情が途切れ途切れに思い浮かんでは消える。浴びせられる暴言の真っ最中に、どこか他人事のようにそう思う。

 

 兄も兄で、怒っているようには見えない。その表情は至って普段通りで、けれど口だけはよくここまで次から次に出てくるものだと思えるほどの暴言を吐く。

 

 ここまで言われる原因が、分からない。

 こんな労力を費してまでわざわざ頭を使い、声に出すのだから、余程のことなのだろう。あの無気力な兄が、ここまでするのだ。けれど、自分には原因が思いつかない。兄が何をそこまで執着しているのか、分からない。

 これが悪意であるのかすら、真の意味では判断できない。

 ただ延々と吐き出され続ける言葉の数々を真正面で浴び続けるばかりだ。それを酷く客観的に、受け止める。

 

 悪かったと、思う気持ちがある。

 ここまで言わせるほどに、兄をかきたてたのだから。

 けれど、もっと他にやりかたがあるだろうに、と呆れる気持ちもある。

 口汚く罵られるだけでは、一体何がいけなかったのか根本的なところが分からない。だからそれを改めようがない。ここには、なにか問題が確かにあるのに、それを解決する方法がない。ただ、受け止めるしか。この不自然に平坦な暴言を吐き続ける兄の目の前で、じっとしているしか、手段が無い。

 

 そのうち、『もっと怒ればいいのに』という気持ちまで沸きあがってくる。

 こんなに長い時間をかけて一言一言を淡々と発音するより、激怒して唾を飛ばしながら、大声で一言、怒鳴りつければいい。そうしてくれたら、自分は困り果てて泣きついて許しを乞おう。そんな、起こることもない事柄への対策をぼんやり考える。

 

 けれどもちろん、兄は顔色一つ変えない。

 

 言ってくれればいいのに。

 怒りたければ怒ればいい。悔しいのなら泣けばいい。八つ当たりだって構わない。

 でなければ自分は、いつまでも、黙ったまま。

 兄の正面で、何もできないまま。

 冷たく抑揚の無い声で、あらゆる罵詈雑言を聞かされるまま。

 目の前で、じっと、兄を見つめることしか出来ない。

 

 繰り返す、悪夢だ。

 なにも現実ではないのに、なにかが酷く現実に似ている。どうしようもなく、その夢を見ている。何年も。繰り返し。

 

 兄とはもう、何年も会っていないのに。

 

 

2023.02.03改