あなたの目から覗く世界は

 

 


 ウィステリアが夫の部屋に入った時、ドアの辺りにはすでにアルコールの匂いが充満していた。くぐもっているのに何故かツンと鼻を刺すブランデーのような香りだった。広くない部屋だ。数歩すすめば、すぐにベッドの上に彼が倒れているのが見えた。灯りはない。ドアを閉めるか少しためらったが、この状況を他の人間に知られることと、今の彼と二人きりなることを天秤にかけ、後者を取った。ガチャリと扉が閉まる音が響き部屋は一度真っ暗になったが、幸い月明りがある夜だったおかげで、ウィステリアの目はすぐ暗闇に慣れた。

「はは。なってない。全然、なってないね」

 ベッドからレグルスの声がした。起きていたことにウィステリアは驚く。ノックをしたときに部屋の主からの返事はなかった。彼の声はいつもより幾分か明瞭さを欠いた発音だった。

「確かに俺の妻はそのぐらい綺麗だ。でも、まったく自業自得な理由で自棄を起こして酒に溺れた男を、心配して部屋に訪ねてくるほどの愚かな優しさを持ち合わせていないんだ」

 彼がなんの話をしているのかは分かる。けれど、誰に話しているのかがウィステリアには分からない。

「彼女は聡明な女だ。だから、俺の幻覚にしたって、悪魔の誘惑にしたって、その姿はまったく『なってない』んだよ、分かるだろ」

 もしかすると、寝言なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりに多くを話しすぎている。酔って、前後不覚になっていると考えるほうが自然だ。

「……そう」

 ウィステリアは短く返事をした。するとレグルスはまた乾いた声で笑った。

「声まで完璧じゃないか。よくできた虚構だ」

 ベッドサイドテーブルには、数本のビンが空になって並べられていた。床に落ちているビンすらある。彼がこんな量の酒を飲んでいるところも、飲んだ酒をこんな風に雑然と置きっぱなしにしているところも、ウィステリアは見たことがない。そもそも、レグルスは酒に強いか弱いのか、それすら知らない自分に今気が付いた。

「放っておいてくれ」

 彼は顔を腕で覆っていた。

「くだらない妄想に、付き合ってる余裕はないんだ。俺の魂に価値なんて付きやしない。堕落した快楽を貪るような生活を満喫している」

 なんだか自分に言い聞かせるような言い草だ。ウィステリアはベッドに腰を下ろした。レグルスはこちらを見ようともしなかった。彼が自分をそんな風に扱ったことは今まで一度もなかった。だからこそ、彼は今夢の中にいるのかもしれないと、そう考えたくなっている自分が、なんだか急に愚かしく思えてきた。

「酷いことを言った」

 レグルスは突然、そう呟いた。

「あんな傷ついた顔、初めてさせた。俺はずっと、彼女に対してはめいいっぱい慎重に話してたんだ。ずっと、何年も。だから、もうおしまいなんだよ。慎重が、アダになった。今頃、彼女は部屋で父親宛に手紙を書いている。それだけのことなんだ。たったそれだけで、すべてが事足りる。その一筆が送られて、翌日にはあの家の戸籍から俺は消えてる。翌週には新居だった邸宅の名義が変わっているだろう。俺は名実ともに無一文で無職の放蕩者になる」

 ウィステリアは、今晩手紙を書いていない。別件で書こうと思っていた手紙すら、取りやめたところだった。確かに彼と初めて言い争いのようなことをしたが、そんな程度のことで離婚しようだなんて夢にも思っていなかった。けれどあの口論で、自分が驚き傷ついた以上に、夫は傷だらけになっているようだった。何が彼をそうさせたのか、心当たりがほとんどないことにウィステリアは段々と、焦燥感に似た――感情になる前の言葉の切欠のようなものを、覚えてくる。

「彼女のために、全部捨てたんだ。人生の全部を。あんなに欲しかったオヤジからの関心も、あんなに努力して取った教会の役職も、彼女の前じゃ、おがくずみたいに軽く吹き飛ぶごみだった。馬鹿だと思うだろう? でも、好きだったんだ」

 レグルスの声は弱く、微かに震えていた。どんな顔をしているのか、腕に覆われて表情が見えない。

「分不相応な欲をかくからこうなる。俺にもチャンスが巡ってきたって、馬鹿みたいに飛びついて。必死に媚びて、騙して、無理やり婚姻届けにサインさせて、これで俺の勝ちだって、………あははは、本気で思ってたのか? 手に入れたって? やっとここまできて、まさか、自分がとんだ欠陥品だったなんて、あはははは…!」

 レグルスは寝返りを打った。小さく丸まるように横を向き、ウィステリアからは背中しか見えなくなった。

「…………遅かれ早かれ、こうなるなら、」

 彼の声は途端に届きにくくなる。ウィステリアは消えていく音を追って、彼を覗きこんだ。

「もっと、……やさしく、……してやればよかった。あんな終わり方に、なんで俺は…………」

 

 声はそこで途絶えた。

 ウィステリアが覗き込んだ彼の瞳は閉じられていた。握り込まれていたらしい酒瓶が、彼の手からこぼれて布団に落ち、さらにバランスを崩してゴトリと床にまで落ちて行ったが、その音にレグルスが気づくことはなかった。

 起こすべきなのか、ウィステリアは迷ったが、彼を起こしたところで、今なにを話せばいいのか、まったく見当もつかないどころかどう算段をつけていいのかすらも分からない自分を自覚したところだった。

 婚姻届けに無理やりサインさせたのは、むしろ自分の方だと思っていた。彼の世界では、まったく違う、何もかも別の物語が進行しているらしい。ウィステリアには彼と別れる気はないが、ここまで彼が固く離婚を信じているからには、何かそのような盟約が、父と彼の間でなされているのかもしれなかった。そんなものが、仮にあるのなら、理不尽だ。いや、理不尽だと思っている自分に、ウィステリアは少し驚いている。彼と別れることを、自分が了承していないままに、勝手に進められるのは嫌だ。子供なんていなくても、彼と人生を過ごす気でいたらしい。自分の感情が、なんだか不思議だった。

「……レグ」

 呼び慣れたはずの彼の名を、小さく口にしてみる。呼びかけに、彼が応えないことが、これほど自分を不安にさせるとは思っていなかった。

 

 

2024.03.11