5-2
実際のところ、今日やらなければならない用事なんて本当はなかった。
プロンテラの街を散漫に歩きながら、ツイードは暮れかけの空を見上げる。
行く当てはないが、このまま帰るのも嘘をついていたみたいでなんだか嫌だ。仕方なく、ツイードの足は教会へと向かう。少し前に提出した書類の確認がそろそろ終わっているはずなので、修正する仕事ができているだろう。
大通りを北上し、噴水広場を通り過ぎているあたりで、この間の夜のことをなんとなく思い出す。
こちらの手をぐいぐいと前に引くスルガの後ろ姿を。
熱くなった耳、汗ばんだ掌、振り返った時に光った眼、歯の見えた口元、首元、咽喉、その下の服越しに見える鎖骨。じかに触ったスルガの肌は、しっとりした熱気を孕んでいた。
最近、あの夜のスルガをこういうふとした拍子に思い出してしまう。
スルガは、どうして自分を好きになったんだろう、とツイードは時々考える。
それは、スルガが好きになったものは本当に自分なんだろうか、という疑問に似ていた。
外面は本当の自分じゃないなんていう思春期じみた感覚ではなくて、もっと本質的な迷いのような感情だ。
人間関係を円滑にするための愛想や、多少交えた方便のような嘘だって、自分自身だとは思うが、それは他人にも食べやすいように味を調えて出した一部であって、アクや臭みは全部抜いた後の産物だ。
スルガは、それを知っているのだろうか。
逆にツイードは、スルガのそれを知らない。
黙々と歩いて教会にたどり着いた頃には、玄関のランプに灯がともるような時間になっていた。
庭から裏口を通り抜けて目指すのは、いつもの書庫だ。
軋む木製のドアを開け中に入ると、書官のアコライトが一人、デスクから顔を上げた。顔なじみだ。
「ああ、お疲れ様です」
アコライト、ナツキはそう挨拶だけして、すぐに愛想もなく書き物に戻った。そして机に目をやったまま、手だけで入口隣の台を指差しして言う。
「できてますよ、そこです」
「あー、ありがとう」
書類の束を持ち上げて、ツイードはパラパラとそれをめくり始める。
どうという事はないまとめのレポートだった。自分の字でびっしり埋め尽くされた紙を眺めていると、内容のできよりも『よくこんなに書いたな』という感想しか出てこない。
ツイードの黒色の文字に対して、青色のインクで書きこまれた線や単語が、それをチェックした上官の修正箇所だった。いくつかの単語や文が並び、時には段落まるまるひとつ分が大きくバツで消されている。けれど、修正は予想より少ないな、というのが全体の印象だった。
「褒めてましたよ」
ナツキが言った。
その態度は生意気だったが、実際よくできる優等生で、おそらく彼ならば自分が出した程度の書類なら、もう既に同じクオリティの物をいくつか書き上げているのだろうなと思えた。
たまに顔を出す自分のようなプリーストが、冒険者らしからぬレポートを寄越すことや、それを読んで褒める上官の姿などは、このアコライトにとってそんなに面白い話ではないだろう。
「そう」
ツイードは軽く返事をして、斜め向かいの椅子に腰を下ろす。
「特にそれは。レポートじゃなくて、ペーパーにするべきだって」
ナツキはツイードのほうを見ていた。俯いていたツイードも、彼のほうに視線を上げる。
「そう? そんなできじゃない」
「したほうがいいと思いますよ、俺も」
「へえ」
ナツキの真面目な顔に、ツイードは興味が出る。
「なかなか公正な目、してるんだな」
「公正も何も。読めばわかります」
「そっか」
(……俺には全然、分かんないけどな)
レポートをデスクに投げ出して、ツイードはそれらを眺めた。
評価されるべきかそうでないのかすら分からない書類も、そんなものを未だに書いている自分も。
たまり場に出て、狩りに行って、モンスターをなぎ倒している時の方が、よほど自分自身だという実感が得られる。そういう意味で、自分は冒険者に向いているのだろう、とツイードは思った。
逆に言えば、目の前の書類や、本棚に囲まれたこの書庫の空気は、つい数年前まで自分の全部だったものなのに、今ではまるで別の世界の出来事のように思える。
「俺には向いてない」
呟いたツイードの独り言に、「でしょうね」とナツキが相槌を打った。その度胸に思わず笑ってしまって、ツイードはこのアコライトの事が嫌いになれない。
「真剣にこればっかりしたい、って人じゃなきゃ、向くものじゃないでしょ、こんなの」
ナツキはペンを走らせる手を止めない。
確かにな、とツイードは心の中でため息をついた。
彼の文字を書き続けるペンとそのペン先に滴るインクとは違い、ツイードのそれは蓋を開けたままにしている内に全部乾いてしまったのだろう。
ツイードはデスク中央にある教会の備品のインクを手にとり、キャップを外す。隣にある借り物のペンで、投げ出した書類のいくつかに修正を加え始め、初めから最後まで一周をさらっと直してから、束をまとめて席を立った。少し時間はかかったが、書いている間ずっと無言だったせいで、体感時間は早く感じた。
「お疲れさまです」
書類に向かってナツキが言う。
彼のぶれない視線の先を見ながら、自分の情熱の向く先は、一体どこにあるのだろうとぼんやり考えて、ツイードはまた木製のドアに手を掛けた。
ギイと軋んでそのドアは開いて、ツイードを外に締め出したのち、バタンと勢いよく閉まっていった。
5-3
外はもう、すっかりと夜になっていた。
昼間に食べた最後の食事は、狩りがひと片付けした後に取ったからずいぶんと遅くなってしまって、そのせいか今はまだなんの空腹も感じない。
たまり場の打ち上げに参加する夜なら、適当に肴をつまんでいたらそれで事足りるのだが、一人の夜はどうしても夕食に悩んでしまいがちだった。
結局、ツイードは自分の宿から近い行きつけの酒場へ足を運んだ。
一人で飲む酒は決して美味くないが、腹も減らない時に一人で取る食事よりは、まだいくらか味がするだろう。
辿り着いた夜の酒場は、日も落ちた今が盛りの時間帯で、多くの冒険者の客がそれぞれのテーブルで賑わい、店内はほどよいざわつきに包まれていた。
ツイードは入り口近くのカウンターに腰を下ろすと、一番安いオードブルとワインを頼む。口髭を蓄えた店主は、無言でそれに頷き拭いていたグラスを置いた。
大衆酒場の前菜は感心するほど早く、露店売りの床に並べられた商品のような乱雑さで、皿の上に乗せられて出てくる。
オリーブの酢漬け、アンチョビ、ベーコンにスモークチーズ。どれも腹が膨れるものではなかったが、今のツイードの胃には十分な量だった。全体的に暗い色をしたそれらの一つにフォークを突き立てる。
なんだかすっきりしない気持ちなのは、今日の打ち上げを断ってしまったからだろう。
おまけに教会にまで寄ってしまって、ツイードの今の感情はノイズが激しくなっている。オードブルよりも雑然とした脳内の言葉たちも、一つずつ摘まみ上げて口に放り込めれば楽だろうにと、無駄な空想を頭に巡らせた。
食事を断った時の、俯いたスルガの顔を、ぼんやりと思い出す。
こういうざらざらした怒りを、スルガにぶつけるのはお門違いだ。
伝えもしていない自分側の問題のせいで腹を立てられたら、彼もたまったものではないだろう。
丁寧で誠実なスルガの態度と、それをどこか綺麗事のように感じている自分。
自分の手を引くスルガの肌の感触や、抱きしめて口づけた首元の感触ばかりが心地よくて、いっそそれ以外は全部わずらわしいもののように思えてくる。
本来ならそんな斜めに歪んだ感情で、彼に向き合うべきではないんだろう。
あの人はもっと大切にされたほうがいい。
自分は、悪いことをしているのだろうか。
ツイードには、もう分からない。
(これ以上踏み込まれたら、まずいな…。振り払って、殴りそうだ)
ツイードは頭を抱え、大きく溜め息をついた。
視界に入ったグラスのワインは、気づけばカラになっている。デカンタにすればよかった。
追加の飲み物を頼もうか悩みながらツイードが顔を上げると、端にある入り口のドアが開き、外の冷えた空気がカウンターに入り込んで来る。
席を空けるべきか、と戸口のほうを見たツイードは、入ってきた冒険者の姿を確認して、その動きを止めた。
そこにいたのはスルガだった。
店内を何度か見渡した彼と、途中でばちっと目線が合う。
「あ」
少し申し訳なさそうにはにかんだスルガの顔を見て、ツイードの内心は、突然重いものを乗せられた天秤の針のようにガタガタと揺れ始める。
乱れた感情は、驚きや怒りや呆れの中に、なぜか安堵の気配が混ざっていた。
「えっと、……すみません、こんばんは」
近寄ってきて自分の隣の椅子に腰かけたスルガを、ツイードは茫然と眺めていた。
「なんで、ここ」
口から漏れた疑問に、スルガがおずおずと答える。
「えっと…、サラエドさんに教えてもらって」
「えっ? 来てました?」
普段はたまり場に来ない友人の名前に、ツイードは尋ね返した。
スルガは、「あー…、飲み会に顔だしてて」と頬をかいた。
「あんま話したことなかったんですけど、今日は席が近くて、仲良くなって…」
(人たらしかよ)
誰とでもすぐ打ち解けるのか、このアサシンは。
サラエドは、どちらかというと警戒心の強いタイプのハンターだ。表面上はヘラヘラ笑っていても、腹の内はあまり明かさない。その彼が、この酒場をスルガに教えたという事は、よほど気に入られたんだろう。
「……ツードさん、遅くなるからってだけで、俺と飯食うのが嫌ってわけじゃないっぽい言い方してたんで……。あの、すみません、急に来て」
「…………いえ、全然」
上手く、言葉にならなかった。
別に必ずこの酒場に来るわけでもない。ここに来たからといって自分に会える保証はなかった。それをスルガも理解していたはずだ。無駄足になる可能性もあったのに。
「用事、どうでしたか」
「あ、終わりました」
「飯、もう食っちゃいました?」
「いや、これが夕飯ですね」
「マジですか? ツードさんって意外に物食いませんよね」
「そうです? そうかなぁ」
そんなこともないですけど、と口から声を出しながら、ツイードの言葉は感情の表層を滑っていく。
何故かは分からない。
そもそも、スルガがどうしてここに来たのかも分からない。
答えのめどは簡単につく。彼はもちろん、自分と食事がしたかったんだろう。
でも何故。
それはもちろん、自分の事が好きだからだろう。
だったら、それこそ、どうしてだ。
「ツードさんがここにいるうちに、来れてよかったです」
「打ち上げ、早く終わったんですね」
ツイードが顔を上げると、スルガは「はは」と照れ笑いして、視線を横に逸らした。
「みんなに追い出されて、抜けてきちゃったんです」
はにかむスルガを見て、ツイードは声が出ない。
自分の感情が、今また無理やり床に押さえつけられて、上から踏まれたような強さで震えているのが分かった。
彼の背を押すのは自分じゃない。自分では、俯かせて小さくさせるばかりだ。あのスルガをみていると、頭の奥が絞られたみたいに痛む。
いつのまにか、スルガの『可哀想』が、『可愛い』と思えなくなっている自分に、ツイードは気づいた。
(もう、駄目だ。別れよう)
その結論は、ひらめくようにやってきた。
そう考えたあと、何を今更こんなことを思いついたみたいになっているんだ、とも思った。
その結論はもうずっと前から、ツイードの中で決まっていたことのように思う。
自分がまともに他人と付き合えるわけがなかった。結局、振り回して、振り回されただけだった。
(早いほうがいい。言うなら、もう今夜でいい)
スルガのことだ、別れても、みんなに慰められるに決まっている。片思いで付き合って、数ヶ月ですぐフられて、泣きながら酒を飲んで、それを仲間に慰めてもらう。そういう一連の流れすら、なんだかもうスルガらしいではないか。
「ツードさん?」
スルガがツイードの顔を覗き込む。
ツイードは、手で押さえた額を無理やり上げて、スルガの目を見た。
「スルガさん、良かったら、俺の部屋来ませんか」