飲み込む事を、身体が拒絶している

 ノウの一撃に、つんざくような音を響かせ、その剣は宙を舞った。
 両手で持つように作られたそれは、重く、硬い。自身を回転させ、床に刃を擦り付けるたびに、金属音が鳴る。その音を目で追うように相手が視線を逸らした瞬間、ノウはもはや右手と同化したカタールで、彼の目を横に切りつけた。
「―――ツっ!」
 かくんかくんと二度、刃が、堅い頭蓋骨ではなく柔らかい眼球のくぼみに入った感覚が、確かに合った。
 液体は散らない。
 相手はよろけ、壁に手を付いた。
 終わりだ。
 甲冑を避け、首元から刃を突き刺すまで、ノウは冷静な興奮に支配されていた。心臓が脈打ち、制御出来うる限界の速さで思考が回る。異常に聴覚と触覚が研ぎ澄まされ、相手が引き攣らせる喉の振動や、その足が踏む地面の砂利や、手をついた壁に手甲が当たる音が、同時に、かつ鮮明に感じ取られた。自分の脈の音も、呼吸の音も、カタールの柄を握りなおす音も、遠くで誰かが「そっちじゃないだろう!」と大きな声で呼びかけた声も、何もかも。


 ノウのカタールはそれから数秒の間に、相手を仕留めてみせた。
 息の根が止まったことを確認すると、ノウの回転速度も、段々失速していく。
 静かな狂気が、その重大な質量を加速の波から逸らせて行く。
 ノウの興奮は、巨大で重い、鉛の円盤のようだった。動かすのに随分と力が必要だったが、一度動けばその圧倒的な重さと威力で全ての物をなぎ払う。


 ついさっき大きな声がしたわりには、誰もノウの居場所を察知できていないようであった。
 暗殺者のアジトにしては、警備が薄すぎる。狩る側が狩られまいと誰が決めた。下らない奢りだ。
 特に何の注意を払うでもなく、ノウは簡単にその部屋へとたどり着くことができた。
 記憶を頼りに、箱を漁る。埃と灰にまみれた書類。
 その奥に埋もれた石箱を取り出す。重い蓋を開けると、封筒が二つ、姿を見せた。記憶の通りだ。一つは乱暴に開けられた後がある封筒。もう一つは未開封のもの。
 ちらりと確認してから、ノウは両方を懐にしまう。
 用は終わった。
 ここに長く留まる理由も無い。


 その日のノウは、不調で、さらに機嫌が芳しくなかった。
 溜まった膿が破裂したみたいな、鬱屈したような気分。


 全ては、そう、サユのせいだ。
 興奮が冷めてしまえばすぐ、またあの人間のことを考え始めようとする自分がいる。


 サユに同席して貰い、三皿食べたサラダと半分は飲み込んだチキンを、ノウは結局、その日の内に吐き出してしまった。
 あれほど苦労して噛み砕いたのに、なんたる無駄な労力。
 そして何より、自分が二度手間を踏んだということ事態に、腹が立った。
 相手がサユでなければ、こんなことはなかっただろう。
 何も知らない顔で、目の前に座っていた彼に纏わり付く複雑な感情たちが、彼の成長と苦労、そして時間の経過をノウにしみじみと感じさせた。
 聞かされたわけではない。ノウが勝手に実感したのだ。これに勝る納得があるだろうか。


 おそらく、最後まで彼と一緒に食事を取り、消化され切るまで彼と共に時間を過ごせば、あれを吐くことなどなかった。
 それを望む気持ちも、あることにはあった。
 けれど、ノウ自身がそれを許せば、食べる食べないなどという事よりも、もっと根本的な何かに、差し支えるような気がしたのだ。
 直感的に。
 そしてその直感は正しかったのだろう。
 サユと時間を過ごすことは、ノウの根幹を揺るがしかねない矛盾だった。

 

(彼の存在を肯定することは、)(彼の経験した時間を肯定することは、)
(同じそれを求め、純粋に、それを欲するという事は、)


 先ほどノウが手を下し、目の前で息絶えたアサシンは、女だった。
 死体を持ち上げた時に気づいたことだ。
 周辺にあった空き箱の中へ適当にその体をしまい、蓋を閉めたあとで、サユが女ならば、どんなに気が楽だったろうにと考えた。
 ノウは芯の部分で、女を自分と同じ生命だと考えて居ないところがあった。
 体の形が違うばかりか、思考の繋がり方もまるで違う。同じ言語は解せるらしいが、本当に通じているのか定かでない。もちろん男にもそれは言えることだが、女の場合は顕著だ。人として駒として扱うには、何の支障もないが、側に置くには不安定すぎる要素だった。
 だからサユが女だったならば、こんなにも自分がサユに共感することはなかったろうにと、事実を悔やんだ。
 共感。
 いや、その言葉も適切ではない。


 郷愁。
 淡い、もっと淡い何か。
 有限の時を思い知った時に生ずる、慈しみのようなもの。
 イツクシミ?
 ……笑ってしまう。
 自分は一体、何をこれほどまでに、動揺しているのだろう。


 本部のアサシンを数人殺した報告がてら、スケルのアジトに行こうかと、ノウは歩き出し、けれど本当に自分はあそこに向かいたいのかと自問自答し始めた。


 スケル。
 この名は、スオウが付けた。
 喧騒、惑わし、高笑いする者、を意味する、狼の名前だ。神話の中で、太陽を食らう。
 スオウは、アサシン組織が内乱を起こす前から、特殊集団を作ろうとしていた。
 時代に、新しい因子を投げ込むというのが、彼の望みだったらしい。
 モンスターが現れたことで、冒険者が生業として成り立っていったように、一つの新しい因子で、時代と言うシステムはその機能を大きく変貌させる。
 そのうねりを見るのが好きなのだと、スオウは言っていた。そしてついには、そのうねりに自らが成りたいと。


 ノウには、彼の言っている意味が、さっぱり解からなかった。理解する必要もないと思った。
 勝手にすればいい。スオウはスオウの望みを勝手に叶えれば良いのだ。
 何をするにしたって、結局は戦闘なのだから、目的など、ノウには関係がなかった。

 

 スケルの成立は、スオウ亡き後となった。それは事実上、アサシン組織からの独立でもあった。
 スオウの配下に居た者は、アサシン組織を抜け出したノウについてきた。
 好きにすればいいと、ノウは思っていた。
 自分はただ、あのギルドマスターの硬い椅子に座っていることに飽きただけ。
 あの心臓が攣る興奮を、味わいたかっただけ。


 スオウの目的をなぞることで、それが達成できるのならば、それだって別に構わない。
 わざわざ自分で目的を上書きする必要もない。


 スケルはテロを起こす。
 騎士団や自警団、果てはアサシンギルド深層部の連中までもが、ノウの命を狙う。
 彼らを掻っ捌く日々。
 それから得られる他愛もない快楽の、
 なんと単調で、なんと中毒的なことだったろう。
 そしてなんと意味のない――
 磨耗していく時間に、おそらくは、微かなりとも気づいていたのだ。

 

 強い吐き気が込み上げ、ノウは踵を返した。
 スケルに向かうことはない。


 自分が作り出した不毛な遊びに、自ら興じることなど、
 吐き気以外、今は感じることがない。

 

 

2008.09.04