来訪

 

 

(1)

 

 ギルド、ユグドラシルが停泊している宿の食堂は、食堂というより、バーの形態をしている。
 その日、サユは入り口側の壁に面した一番奥の席に座って、ギルドメンバーたちの騒ぎを眺めていた。
 見回りから戻った彼らは、資金班が適当に狩りで集めてきたものを物色し、わいわいと賑やかに過ごしていた。少し早いが、そろそろ夕食だろうか。
 扉に気配がしたのは、そんなときだった。


 宿屋のドアに、透き通ったような気配があった。
 扉を開くのも、一歩足を踏み入れるのも、まるで溶け込んでいる。
 自然すぎて、不自然な、影だ。
 食堂内が、一瞬、動きを止めた。その刹那の静止に、サユは自分の直感が間違いではないことを知る。
 何かが入ってくる。


 異様な空気の中、部屋に入ってきたのは、一人の男だった。
 萌黄色の髪が行儀良く並んだショートカットの髪に、鮮やかな赤紫色の目。
 ノウだ。


 彼が直接、ユグドラシルの宿にやってくることなど、初めてだった。
 オルエは今、食堂に居ない。
 日も落ちていない時間だ。奇襲か。何だ。解からない。
 彼があのノウであるということを知っているギルドメンバーは少なかった。
 けれど今日のノウは、間違い無くアサシンクロスの格好をいていたし、ユグドラシルと戦闘態勢にあるアサシン集団の一人だということは簡単に知れたようだった。


 食堂は、騒ぎの声を僅かに保ったまま、彼を部屋に二、三歩踏み込むことを許す。
 サユは腰にあった短剣のホルダーをはずした。
 自分が飛び込むには、距離がありすぎる。
 ファーストアタックには、もっと適任者が居るだろう。サユではない。
 サユは息を潜める。


 奇妙な時間の静止だった。
 急にしんと静まりかえることもなく、動きがぴたりと止まることもなく、
 何もかもそのままに、けれど空間が止まった。
 誰もが一秒前の動きを続行させたまま、入り口付近に神経だけで注目していた。
 これがユグドラシル流の、警戒態勢らしい。
 カウンターの中でグラスを磨いていたマスターは、何も気づかないまま彼の仕事を続けている。


 自分の続行させるべき動作をやめて、初めて侵入者に近づいたのはリサだった。
 彼女のブーツが木の床を鳴らす。
 リサはしっとりと、しかしはっきりした口調で言った。
「血生臭いアサクロは、お断りしてるんだけど」
 ノウはそれほど背が高くないが、それでもリサよりは視線が上だった。
 彼はその顔に笑みを造って、にこりとした。
「なら、ここにいる全員だ」
「勘違いしないでくれる」
 リサが一言一言を強く発音した。
 彼女の睨み付ける視線をものともせず、ノウは肩をすくめ軽く視線を逸らす。
 部屋の中の緊張が一瞬に高まった。
 段々と食堂の声のボリュームが下がってくる。サユ以外にも武器を構えているメンバーは何人もいた。リサが横に飛びのけば、おそらく一斉攻撃が始まる。


「今日は約束があって来たんだ」
 ノウの声は、一段と澄んで聞こえた。
「誰?」
「僕?」
「違う、誰と約束したっていうの」
 ああ、とノウは頷いた。
 そして、躊躇わずにサユのほうを真っ直ぐ見つめて来た。
 急に投げ込まれたノウの視線に、サユはどくりと緊張する。
 気配を消していたつもりだったが、攻撃態勢が見破られたのだろうか。
 ナイフの柄にまでかけていた手が、僅かに震えた。
 しかしナイフのことには全く触れず、ノウはサユを指差して、リサのほうを向き直った。
「あの子」
 リサが訝しげな顔をしてノウの指をさしたほうを見た。
 しかしそこにはサユを含め数人がいて、彼女は誰だか判断できなかったようだった。
 目が合ったサユには自分のことを言っているのだということが解かったが、しかし理由がない。もちろん、ノウと約束など交わした覚えは無かった。
 彼は先日、自分を食事に連れて行った。おそらく、オルエの代わりだ。
 あの日、オルエは用事で出かけていたから、プロンテラには居なかったので。
 ノウは勝手に食べて、サユに何かを食べさせて、満足したのか帰って行った。
 それだけのことなのに。


 ノウの足が動いた。
 リサは鋭い目で警戒していたが、彼を止めなかった。
 ノウは黙ったままサユのほうに向かってゆっくり近づいてきて、目の前でぴたりと止まった。
 サユはホルダーから手を離せないまま、いつでも立てるように椅子から重心をずらしていた中途半端な体制で、彼を見上げた。
「サユ」
 ノウが微笑んだ。


「ちょっと!」
 説明を求めるようなリサの声は、完全にサユに向いていた。
 サユには弁解などできない。
 ノウは周りの緊張などお構いなしのような様子だった。
 そしてサユの隣の空いていた椅子に腰を下ろした。


 街中で会った時と違い、ノウは完全武装だったし、何より弱っていない。
 隣に座られて、サユは全身の毛穴が締まっていくのを感じた。


「あんた、一体、誰よ!」
 リサがノウに迫った。
 その時、後ろからオルエの伸びやかな声が聞こえてきた。
「お~い」
 全員の視線が声のほうに向いた。
 オルエは二階へと続く階段を下りてきているところだった。


「ノウが来た?」
 オルエはいつものひょうきんな声で周囲にそう尋ねたが、彼が口にした名前で、部屋中の空気は固まった。
 オルエのほうを振り返っていたリサが、目の前に対峙したこの男こそが、その名であるということに気づき、一歩後ずさった。
「ああ、いたいた、ノウ」
 歩み寄って来たオルエは、食堂を包んでいた妙な空気と、リサに凄まれながらもサユの隣に腰掛けている彼を見て、大いに笑った。
「おいおい、あんまりサユをいじめるなよ」

 

 

 

(2)


 とりあえず、ここじゃあなんだから、上にあがろうぜ、と声をかけたオルエに、ノウは穏やかな笑顔のまま「やだ」と言い放った。
 その瞬間、リサのこめかみがピクリと動いたのをサユは見る。


「……。なんで?」
 予想外の反応に、オルエは僅か眉を寄せ、しかしノウを刺激しないやり方で疑問を投げ掛けた。
 珍しく、オルエが慎重だ。
 オルエの態度に気を取られていたサユは、次の瞬間、ノウが何かの動きを見せ、びくりと肩を引き攣らせた。
 ノウがこちら側に動くなど、予想もしていなかったせいだ。
 視線をゆるりと動かせば、左肩にノウの頭がしな垂れて来ている。


(なんだ…?)
 サユは何も出来ず固まった。筋肉が引き攣った余韻が、腹の奥に残る。驚いた。
 どうしてノウが自分の肩に体を預けるのか、サユにはさっぱり解からない。乗せる理由もなければ、払いのける理由も無い。


 サユの思案などまるでよそ事のように、ノウは肩に持たれかかったまま、
「今日はサユに会いにきたんだもん」
と、子供のようなことを言った。
 それを聞いたオルエはぽかんと口を開けたまま、「へ?」と声を漏らす。
 オルエの瞳は、サユの顔をちらっと流し見たが、サユが何も情報を持っていないことを悟ると、再びケラケラと笑い出した。
 笑いながらオルエは、サユたちとテーブルを挟んで向かいの席へ横向きに腰を下ろす。
「あれれー? じゃあ本当にサユをいじめてんの?」
 さすがのオルエも、ノウがサユ目当てで尋ねてくる理由などには思い当たりがないらしい。
 オルエの質問に、ノウは眉を寄せる。
「んー?」
 一人で考えて見たが答えは出なかったようで、彼は視線だけ器用に上を見上げサユの顔を覗きこみながら言った。
「いじめてる?」


 少なくとも、助けてはいない、とサユは思う。
 それも、随分遅いスピードの思考だ。
 尋ねて来た癖に、ノウは、サユの解答など求めていないようだった。
 オルエがノウの気をサユからなるだけ離そうと、言葉を繋ぐ。
「サユが、何かした?」
「いや」
 ノウは少し落ち着いた声を出した。
「サユとは、幼馴染なんだ」
 確かに、ノウはそう言ったように、サユは思う。
 いや、意味が解からないし、脈絡がなさすぎるから、もしかしたらサユの聞き間違いなのかもしれない。
 心当たりが無さ過ぎてサユは口が挟めなかった。
 オルエは意外そうな顔で、「え?ホント?」と尋ねてくる。


 ノウとは数日前に初めて会った。
 サユの昔の記憶に、ノウは登場しない。
 いや、もしかすると、アサシン組織にいたころのサユを、ノウは知っているのかもしれない。
 けれどサユには、さっぱり面識がないのだ。
 それを幼馴染と言うだろうか。


 サユが黙ったままでも、どうしてだか会話は進む。
「邪魔してるみたいだね、僕」
 ノウは周囲の視線が全て自分たちのほうに向けられていることに、今更気づいたような顔をした。
 リサが、余計腹を立てて、何か言おうとしたけれど、周囲に止められる。


「オルエ、サユを借りるよ」
 ノウはサユの腕を掴んで立ち上がった。
 サユは逆らわず、けれど自ら進んで立ち上がらなかったので、中腰の体勢になった。
「いーけど、どこに?」
 オルエが尋ねて、ノウは「うーん」と小首をかしげる
「ここの屋上」
 周囲にいたユグドラシルのメンバーは殆ど全員が反対しているようだった。鋭い視線がノウに向けられている。
 オルエは、何も言わない。

 

 ノウは、いつまでも完全に立ち上がらないサユの目を覗きこんで言った。
「サユ、二人で話そう」
 ここに来てからノウがサユに何かをまともに喋ったのはこれが最初だった。
 やっと、会話の舞台に上げられて、サユはノウの言葉の意味を掴むために彼の顔を見つめ返した。
 ノウは微笑んでいるようでもあったが、表情がその形をしているだけで、無表情なのかも知れなかった。
 そして、低くも高くもない独特の澄んだ声で、サユを射抜いた。
「僕は、サザヤを知っているよ」


 ノウの口から出たのは、亡き師匠の名だった。

 

 

 

 

(3)

 

屋上は、音の出る風が鳴っていた。
その圧力に、干されたシーツたちがバタバタとはためいて、サユは何か懐かしい音を聞いた気になった。

 屋上へ先に上ってしまったノウは、手すりに両腕をかけ、身体をこちらに向けたまま、色の無い瞳でどこか遠くの空を見ていた。萌黄色の髪が、時折吹く強い風に為されるがままだった。


 サユの後ろからオルエが屋上に入ってきて、バタンと木の扉を閉めた。
 日が暮れかかっているらしく、西の空がわずかに黄色みを帯びている。


 武装中のノウの射程圏内に入ることが、サユには躊躇われた。
 けれどノウの射程は随分と広く、圏外からでは、会話をするには少し遠い距離だった。


「あれ、オルエもいるの」
 ノウは視線をこちらに寄越してから、意外そうな声を上げた。
「カボチャと思っておいてよ」
 オルエはそう軽薄に言い、壁際に置いてあった木製のベンチに腰をおろした。勢い良く座ったせいで、木が軋み、オルエの服の中に仕込まれた金属の音が、ジャラっと鳴った。
 まるで隠していない暗器の気配には、威嚇のようなものさえ感じられる。
 穏やかじゃない。


 ノウは一度「ふーん」と呟いた。
 そして何かを考えているようだったが、すぐにその思考に飽きたようで、視線を再び、サユに戻した。


「思い出すんだよ」
 ノウの声は大きくなかった。けれど、不思議と良く透る声で、風の音にもかき消されなかった。
「なんか、次々と」


 突然始まったノウの話に、相変わらずサユは付いていけない。距離も不自然に遠かった。
 しかしノウはやはり、お構いなしに話を続けた。


「サユのことを思い出してからずっと、ずるずると、手繰り寄せるように、色んな事を思い出すんだ。自分が忘れてたことさえ、忘れてたようなことなのに」


 ノウは両腕から重心を足元にずらした。そして、一歩、前に踏み出す。
「スオウの言ったこととか、やったこととか。サザヤのことも。名前まで思い出した」


 サユは射程の中心が移動してから、思わず左足を半歩引いた。身体を傾けるように、腕も引く。いつ飛び掛かってこられてもおかしくないと思った。オルエのほうがノウと距離が近かったが、向かってくるなら自分だろうと、サユは身体を強張らせる。


「で、オルエが聞いてもいいの」
 ノウはサユに問いかける。
 師匠の名を出したことの話だろうか。
 サユは目だけでオルエを見た。彼はベンチの背もたれに肘を付き、ふてぶてしい様子でこちらを眺めていた。


 サザヤの話は、アサシンギルドの暗殺者組織に纏わる内容なのだろうが、サユが内部の情報に詳しく触れたことはない。師匠の口から、そんなものを聞かされる前に、内部抗争が始まった。
 サザヤはそれに巻き込まれ死んだのだし、サユはそれから組織から逃れ、プロンテラに渡ったのだ。
 サユは何の機密も持ちえていないし、何の秘匿も課せられていない。
 組織の情報をオルエに聞かれてまずいと思う人物がいるとするのならば、むしろそれはノウの方じゃないのか。


 サユが黙ったままでいると、ノウは待つのをやめ、質問を変えた。
「サザヤが死んだのは知ってる?」


 ノウがまた一歩、足を進めた。
 オルエが背もたれから起き上がり、今度は右膝の上に肘をついて、顎を乗せる。
 サユは、こくんと頷いてみせた。それを見て、ノウは続けた。


「じゃあ、サザヤが死んだところは見た?」


 サユは首を横に振る。
 ノウが、ふふ、と笑みをこぼした。


「サザヤはね。スオウが殺した」


 ど、と。腹の奥からの脈を、サユは感じだ。
『スオウ』
 先ほどからノウがちらちらと出す名だが、聞き覚えが無い。
 知ったからといって、今更、どうと言うことはない名だ。
 今更と言わず、今までも、知れたからといって、どうなっていたわけでもない。そう思った。
 なのに、体の奥に血脈を感じる。


「スオウは知ってる?」


 サユは再び首を振る。
 組織のアサシンたちの顔など、誰一人として覚えていない。名も知らない。知らされていない。ほとんど、会いもしなかった。サザヤは寡黙な男だった。今にして思えば、その沈黙で、サユを守っていたのだろう。


「そう、知らないの。桃色の髪のね、イカレた眼をした男だったのだけれど。割と有名だったんだけれどね?」


 ノウをして、イカレたと言わしめる男なんて、想像に難い。
 それほどに強烈な印象を残すアサシンにも覚えが無かった。


「サザヤは、スオウと一緒に、建物から落ちた」
 そこでノウは大きくため息を吐いた。


「ハァ。やんなっちゃうよ。つかれた」
 彼はそう言いながら、こともあろうに、オルエのいたベンチへずかずかと歩いていき、その横に座りこんだ。
 オルエはノウの動きを首で追っていたが、隣に腰をおろしたアサシンクロスにさして驚くわけでもなく、彼のために少しスペースを開けてやったりしていた。


「オルエ、飴もってない?」
「あめ? キャラメルならあるけど」
「頂戴」
「いーよ」
 オルエは胸元に手を入れてから、あれ、と首をかしげ、ズボンのポケットを後ろ、横、と探ったあと、ああ、と頷き、法衣の裏ポケットにたどり着いた。
 そこから取り出した白い包み紙をノウに手渡す。


「手作りだから、うまいよ」
「え? オルエの?」
「いや。ビジャックの。俺は食べる専門家」


 何故か自慢げにオルエは言い、「へえ」とノウは興味もなさそうに包みを開けた。
 ノウが取り出したキャラメルが、彼の口に運ばれるまでの動作を、サユは呆然と立ち尽くしながら眺める。


 オルエにしろ、ノウにしろ、彼らの行動はいつもサユの理解の範疇を超えたところにある。
 ノウは確かにテロ集団のリーダー格の男で、オルエは確かにそれを追うギルド『ユグドラシル』のマスターだ。両者は平素、夜の町で、追い、追われ、死線を潜り抜けているはずなのに。彼らは今ここで、キャラメルの受け渡しなどを行っている。
 もちろん、個人設立のギルドには、治安維持活動の執行権がほとんどないため、現行犯でしかテロリストを捕まえることはできない。けれどそれは極端な話で、例えば、ノウを殺める権利はないが、生かしたまま捕らえ、騎士団に連れて行くことぐらいはできるのだ。
 しかし、それを今するかしないかは、オルエが決めることであって、自分は決定する側の人間ではない、とサユは思っていた。
 だから、目の前の違和感しかない状況に口を挟まず、ただ黙っている。


「うまいでしょ?」
 尋ねるオルエに、ころころと口内でキャラメルを転がしながら、ノウは投げやりに言った。
「…わかんない」


 そしてノウがまた、溜め息を漏らす。


「ハア。知らないか。そうだよねぇ。僕の中では一大事件だったけど、見てた人間はほんの一握りだし」


 疲れ果てた声で、アサシンクロス装束をベンチの背に付け、ノウは空を見上げて、片腕で顔を覆った。その仕草は、あまりにも人間臭くてノウに似合わない。


「真夜中のモロクの、屋上から。満天の星空だったよ。サザヤに突き刺さった刃物が月明かりに白く光ってて、スオウのぽっかり開いた右腕が真っ暗。まさかスオウが負けるとは思わなかった。いや…、サザヤは死んでいたから、おあいこなのかな? でもまさか、アイツが死ぬなんて。腕が無いなんて。そしたらアイツ、わけの分からないことを言って、飛び降りちゃった。…まったく、人騒がせなやつ」


 びゅわっと風の音が鳴った。シーツのはためく音もそれに続く。
「わけの分からないこと?」とオルエが首をかしげ、ノウに尋ねた。
「なんて言ったの」
「わかんない。シナバなんとかって」
「ふうん」


「それでさ」
 ノウは腕をのけ、サユを見てから、左太ももの裏に手をやった。
 サユはその動作に、咄嗟に身構えたが、ノウがその場所から取り出したのは、一枚の封筒だった。


「スオウの話はどうでもいいんだよ。この話を思い出すのはいつもことだもの。でもサザヤのことを思い出したのは、サユのせいなんだよ」


 ノウの手に持たれた封筒は、随分と古く、変色していた。
 封を閉じるためか、縦に赤い蝋が垂らされており、その上から独特の型が押されているようだった。普通の蝋印と違って、それは余りに大きい。
 オルエも物珍しそうな表情で、その封筒を見ていた。
 と、突然、ノウがそれをサユに投げて寄越す。
 早い速度で顔を目掛けて一直線に飛んできたそれを、サユは咄嗟に掴んだ。


「それ、サザヤの遺言書」


 ノウが冷めた声で言った。
 封筒を掴んだサユの手の神経が、ぴくりと動く。


「知らないでしょう、その形式。それ普通、弟子が持ってるものなんだよ。あのギルド、一子相伝だったでしょ? その大層な封は、遺言書」


 サユはゆっくりと、それに視線を落とした。
 ざらりとした古い紙の感触がする。赤く濁った蝋の封。
 裏返すと、中央に、サザヤの名があった。その筆跡に、サユの心臓は強く脈打つ。
 サザヤ本人のものだ。
 まさか今になって、彼縁の品を手にするとは思いもよらなかった。


「それ、スオウの遺品に混じってたんだよ。変だなと思ったから、記憶に残ってた。まあ、最近まで忘れてたけど。開けてみなよ」


 サユは言われたとおり、封筒の端を切る。オルエが立ち上がり、サユの元に歩み寄ってきた。
 構いもせず、ノウは空を眺めている。
 ちりちりと、古い紙は破れ、中から一枚の紙が出てきた。
 二つ折りに畳まれた紙で、開けば四方を厳かな縁に飾られていた。正式書にある、独特な体裁だ。右下に、インクでサザヤのサインが施してある。
 しかし、肝心の中身がなかった。
 白紙だ。


「何が書いてある? 僕はスオウのを貰ったけれど。笑っちゃうよ。一言だけだった。一言って。そんな遺書ある?」


 オルエが紙を覗きこんでから、サユの顔を見た。しかしサユは、白紙の紙に視線を奪われたまま、逸らせなかった。


 また、屋上に、強い風が吹いた。
 ノウの髪は、風に遊ばれる。
 サユの手の中で、白紙の遺書が、パリパリと揺れた。


 サユがやっとその紙から視線を上げると、こちらを真っ直ぐ見据えたノウと、眼が合った。


「読めた?」
 ノウが尋ねる。
 サユは、こくりと、頷いた。


「そう、じゃあ僕の用事はそれだけ」
 ゆっくりとノウが立ち上がる。そして、サユたちの方に近づいてくる。


「オルエ、邪魔したね」
「おう」
「キャラメル、ごちそうさま」


 ノウはそのまま、オルエの横をすれ違うようにして通り過ぎた。
 


「それ、取りに行くの、結構、骨が折れたんだから。大事にしてよね」


 ノウがそう言った次の瞬間、一層強く、風が吹いた。
 その弾みで、シーツが数枚、物干し竿から飛び立つ。ぶわっと音を立てて、舞い上がるように白い布が東の空に流れて行った。浮かび上がった布の影は、サユたちの頭上を通り、日の光を遮った。
 と、同時に、ノウの気配が消える。


 サユは慌てて振り返ったが、そこにはもう、ノウの姿が無かった。


「わざわざ、届けてくれたんかね」
 オルエが、彼の消えた方角を見ながら、サユに声をかける。


「親切だなー」

 

 

200.09.04