夜風と、夕方の記憶

 

 ふいに意識が戻ってきたときには、すでに夜深くだった。心地いい風が部屋をゆるやかに流れている。
 キュリオスは、違和感のせいでまどろむような眠りから覚醒する。肌に何も身に着けていない。服を着なくては、と体を起こし、それから直前までの情事を急に思いだした。隣では、自分と同じように素肌のままのシスルが、音もなく眠っていた。
 くしゃりと歪んだシーツには、柔らかいには月明かりがさしている。

 

 さっきまでこの部屋を支配していたはずの強い熱は、嘘のように息を潜めていた。火照っていた体はほんの少しの時間離れただけで、簡単に冷めていってしまうようだった。

 

(どのぐらい寝たんだ)

 

 キュリオスは起き上がり、ベッドの縁や床に落ちて広がったの衣服を拾いあげながら、開かれたままの窓に手をかける。空には僅かに欠けただけのほとんど丸い月が、煌々とその光を周囲に放っていた。どうりでこんなに明るいはずだ。外の通りには誰の人影もなく、建物の明かりさえほとんどついていない様子だった。かなり深夜になってしまっているようだ。

 

 軽く寝間着を身に着けてベッドを振り返れば、さっきからまるで動かないシスルが、うつ伏せのままベッドに横たわっている。

 

 本当に眠っているのだろうか、とキュリオスは疑問に思ったが、よくよく考えると、そんなことを疑問に思うほうがおかしいのだった。人が深夜に寝るのは当たり前だ。それでも、この警戒心の強いアサシンが、こんな無防備な姿のまま眠りこけていることが、どうにも不思議な事のように思える。

 

 いつから、この寝顔をこんなにもまじまじと眺められるようになったんだろう。

 

 ベッドに近づいてはみたものの、隣に立つ程度の距離では、かすかな寝息さえ聞こえなかった。静かな男だ。彼がそう無意識に願っているのか、彼の存在はその影のように希薄だった。ふと瞬間に、手が届かなくなりそうだ。

 

(そんな儚い人でもないだろうに)

 

 どちらかといえば、シスルの身体の幹はしっかりしているし、その内側にはしっかりと硬い肉が詰まっている。彼の一撃は速く重い。なのに、いつまでも羽毛を宙で掴むような難解さを、自分はシスルに感じているような気がする。

 


 夕方、同じ岐路についていたのに、シスルが途中で用があるからと別の通りを曲がった。その時のことを思いだす。
 暮れかけた空が、薄い朱色に染まっていた。気づけば近頃の夕日は早い。足元から伸びる影も長く濃くなっていた。その先にある彼の後ろ姿を、キュリオスはなんとなくじっと見送った。

 

 どんな用事なのかは、いつも聞かない。
 たぶん、本当の意味でも、聞きたいと思っていない。
 どこかに行ってしまうんじゃないか、と思う気持ちは、不安というより、思い出に近い匂いがしている。
 かき乱したくないし、手折ってしまいたくもない。
 この風景だけを、いつまでも覚えていたい。

 


 ん、とシスルがくぐもった音を出し、寝返りを打った。
 おや、と思ったが、彼は眼を覚まさなかった。少し意外に思う。
 もしかしてさっき、無理をさせただろうか。
 もういい、と促す彼の言葉を、鵜呑みにしすぎたかもしれない。

 

 けれど仰向けになった途端、彼の口元から、すうっと息の音がした。気道が楽になったのか、表情も幾分か穏やかそうだ。
 キュリオスはその顔を眺めながらベッドに腰を下ろす。

 

 二人で過ごす無言の夜は、どうしてこれほど心地いいのだろう。
 耳を澄ませば、かすかな夜風と、彼の寝息が聞こえてくる。
 もう少しだけ、この時間を誰にも知られたくない。
 彼にさえ黙ったまま、箱にしまって、閉じ込めておきたい気分だ。

 

 秋が、更けていく。

 



2020.11.10