幸せな夜

「むかし、猫と暮らしてた」 

 ノルドハイムが唐突にそう言った。

 月があかるい夜だった。部屋の明かりはとうに落としていたが、窓から差し込む月光が、布団に波模様の影を描いていた。リザベルは特に相槌をうつこともせず、もう一度ノルドハイムの素肌の、胸のあたりに頬擦りをする。

 宿屋に泊る日は、静かだった。動物を連れ込めない宿は、特に。ノルドハイムの遠征に付き合うときはいつも、焚き火の傍で、二体のホムンクルスとサベージベベとピッキと鷹に囲まれて、暖を取るように眠るのが常だったけれど、川で水浴びできない気候だったり、野営に向かない治安の地域だったりすると、ときどき町に寄って宿屋に宿泊する。部屋は二つ取らない。ひとつだけ。そしていつもと同じように、同じベッドの同じ布団の中に潜り込む。服を脱いで、肌を擦り合わせる事もある。その日はそういう夜だった。

 自分の言葉に対してリザベルが返事をしなかったことをまるで気に留めるようすもなく、ノルドハイムはぼんやりと部屋の虚空を眺めながら、淡々とした平素の口調で話を続けた。

「おれより賢い猫だった。三毛猫で、名前はマーチ」

 遠くで、シーシーと虫の音が鳴っていた。リザベルはゆっくりと三毛猫を想像する。白と小麦色と茶色のまだら模様をした猫が、背筋を伸ばしてぴんと座っているところを、だ。

「っていうか、おれが勝手にマーチって思ってた。首輪に『M』ってかいてあったから。本当の名前は、わかんない」

 リザベルの想像の中の猫は、そう言われる前から既に首輪をしていた。燕尾色の皮の首輪だ。そこに焼印でMの文字をつける。確かに、賢そうな猫だった。

「おれより先に家に住んでで、なんでも一人で出来る猫でさ。おれは、その猫に教えてもらってた。おかあさんが、」

 ノルドハイムがそう言った時、リザベルの想像上の猫の隣に突然、幼いノルドハイムが現れた。と言っても幼い頃の彼を見たことはないから、ただの空想だ。今のノルドハイムと同じ髪型で同じ服装で、ただ背だけを縮めたような、まあるい目と、まあるい手の、男の子だった。座った時の背が猫より少し大きくて、背筋は猫のそれよりまるかった。男の子は、母親のことを「おかあさん」と呼ぶ。リザベルは、ひどく懐かしい気持ちになった。おかあさんが、とノルドハイムが言葉を続ける。

「ご飯をくれなかったとき、おれ、なんでか知らないけど、くれるまで待ってたんだ。ずっと。ぼーっとした人だったし、いない日も多かったけど、くれるまで、ずっと待ってた」

 

 部屋の真ん中で、呆然と家人を待つ男の子が座っている。リザベルは漠然と、彼が待っていた時間というのは、普通の子供の待てる時間ていどではない、と考えていた。朝から日暮れまで、或いは夜更けまで、或いは何日も夜をまたいで、ずっとずっと。幼い少年にとって無秩序で途方も無い長さだったのだろう、と思った。根拠はなく、確信だけが伴う想像だった。

「でも、ある日、マーチが勝手に餌食べてるの眺めてて、『あれ、おれもこうすればいいんじゃない?』って思ってさ。いま考えると、なんで待ってたのか、そっちのほうが不思議なんだけど。で、その日から、おれも勝手に食べた。家に食べるものがなんもないときは、マーチの、もらってた」

 猫と並んで、手づかみで食事をとる男の子。リザベルはその想像の姿にどこか安堵する。そしてそれに今の彼の面影を見る。『おかあさんが用意してくれなくて、ひとりでご飯を食べる男の子』そういった印象と、今現在のノルドハイムの食事風景に、驚くほど重なるところがあった。そうだったのか、とリザベルは、心のどこかで何かがすとんと腑に落ちる感覚を、じんわりと味わった。もうずっと、その時から、そのままなんだろう。理解というより、実感として分かる。そうやって彼は、食事だけでなくて、他のことも何もかも、ひとりで獲得してきたのだろう。ほんの、小さな男の子だったときから。なんだかすごく、安心するような頼もしいような、そういう安定感みたいなものがリザベルの胸に浮かんだ。しかしそれと同時に痛烈な寂しさがよぎった。間違って魚の骨を飲んだ時のような予想外の痛みに、喉がギュッとなって、リザベルはまた一度、ノルドハイムの胸に頬を擦る。そうしているうちに痛みは喉元を過ぎ去って、あとには違和感だけが残った。

 息をゆっくりと吐く。ノルドハイムの胸も、リザベルとは違うタイミングでゆっくりと、呼吸で上下していた。

「ときどき、あの味、思い出すんだよなぁ」

 なんでだろ?と彼は首をかしげる。特に美味しいわけでもなかったのに、と付け加えてノルドハイムは、大きなあくびをひとつした。

 リザベルの想像の中の男の子は片方の手のひらに猫の餌を何粒か持って、もう片方の手でひと粒ずつ、口に運んでいる。ぼんやりと彼の手がいくどか往復するところを考えていたら、リザベルはふと、言葉に出してしまっていた。

「……どんなかたち?」

 え、とノルドハイムが頭を動かしてリザベルを見る。

「餌?」

「……」

 リザベルも少しだけ視線を上げて、彼の目を見る。覗き込むようにまんまるの目がリザベルをしばらく見て、それからノルドハイムはまた宙へ視線を戻した。

「んーと、つぶつぶ。ぼこぼこっていうか、ほら、コンペイトウみたいなかたち」

猫の餌なのだから、色は茶色か緑色だろう。味だって粗野に決まっている。けれどコンペイトウと聞いてから、リザベルの頭の中の男の子の手のひらには、色とりどりのコンペイトウが広がっていた。黄色やピンクや水色をした半透明の粒が、ひとつずつ持ち上げられて、口の中に大切に、ほうりこまれる。だからだろう。リザベルは思う。だから、いつまでも覚えていて、ときどき思い出すのだろう。事実とは違う想像が、リザベルを不思議と納得させた。

 

 遠くの虫の音はやまない。ノルドハイムはそれきり、話すのをやめて、眠る姿勢に入ったようだった。そうだったのか、という実感だけが、いつまでもリザベルの口の中に残る。布団にくるまり、ノルドハイムに肌を寄せながら、じわじわ更けていく夜に、リザベルは自らの瞼もゆっくりと閉じた。

 そうだったのか。

 そうだったんだろう。

 納得感が、安心を伴って、睡魔を呼ぶ。安らぎに似た後悔が、自分のどうにもならなかった幼い頃の記憶の、感情の部分だけに共鳴しているみたいだった。懐かしさは、やわく、上下する胸の呼吸のような速度で、身体の奥に染み渡る。

 ふと、頬に水が流れた感触がした。指でぬぐう。いつのまにか、触れ合ったほうの頬に一筋だけ涙がこぼれていたようだった。一体どうしてなのか、リザベルは、自分でも分からない。

 どちらかと言えば、幸福な夜だったのに。

 

 

2017.09.14