ぬるくなったビール

  少し、張りつめた空気を感じる。テロでもあったか、とクロウは投げやりにベンチへ腰を落とした。首都プロンテラに集う冒険者は、人口が多い分、強者も多い。たとえ街中にモンスターが湧いても普通なら三分程度で片が付いて、すぐに何もなかったようないつも通りの賑わいを取り戻す。ただ、殺気の気配というものは、洞窟の中の声のように、いつまでも尾を引いて中々なくならないものだ。鋭い残響が、空気に漂っている。

 昼食を抜いてしまった。正確には、食べ忘れた。やりたくない処理をしたり、考えることをやめてぼうっとしたり、くだらない雑貨屋を覗いたりしている間に、時間はあっという間に正午をすぎ、昼も下がり、いつのまにか店じまいを待つだけの堕落した午後の顔ぶれになってしまっていた。広場の周りにあるランチタイムにしか繁盛しないような屋台は、もう既に商売の気配がない。日の当たらない店内が、ぼんやりと暗く、中に店員がいるのかどうかもよく分からなかった。それを視界の隅で確認すると、クロウは自分の中に残っていた食欲のふりをした義務感を、オレンジの種のようにぷっと道端へと吐き捨てる。口の中に架空の苦みが広がった。

 

「あー」

 音をこぼしながら、ベンチの背もたれにのけぞってみる。

 

(サイアクだ)

 

 クロウは思う。しかし最悪なことに、理由はない。最悪な対象が存在するわけでもない。けれどとにかく、最悪だ。気分が重い。重いし硬い。硬いのに粘る。粘るくせにカサカサだ。だから最悪、それ以外に表現しようがない。

 煙草を持っていたと思う。けれど後味を気にして銘柄を選んだせいで、変に健康志向なパッケージを買ってしまった。昨日、一本だけ試しに吸ったが、くそ爽やかなハーブの煙みたいな匂いがした。後どころか前の味まで悪い。捨てようと思っていたものだ。今、この場所でそんなものを吸い込んだところで何の気分も晴れやしないだろう。簡単に想像できる結果なのに、むしろいっそ一旦煙草をくわえて、その端をガジガジに噛みつけてやりたいような衝動が抑えきれない。

 

 腹が減った。クロウは漠然と心に浮かんだ言葉をつまみあげる。

 

 そうだ、本当は空腹なんだ。でも、パンは食べたくない。丁寧に焼かれたフォンダンショコラとか、中が半熟のチーズケーキとかに、美しく粉砂糖をふってから、ナイフとフォークで食べたい。いや、その前に薔薇湯で体のすみずみまで洗いたい。指の間も耳の中もぜんぶぜんぶジャブジャブに洗い流して、全部を落として、それから整えられたテーブルの椅子へ、ゆっくり腰かけて、皿の両隣にあるナイフとフォークを手に取るのだ。スローモーションのような速度で、刃が洋菓子に埋まっていく。突き刺さるフォークが切り取られた欠片を重力から救い上げる。口に入って、広がって、甘い濃い味がして、そこでようやく、一秒が正しい長さを取り戻す。そういうものが必要だ。決して、断じて、絶対に、干乾びた肉と萎びた葉が挟まったカスカスの硬いパンが食べたいわけじゃない。分かってほしい。この気持ちをこの街の全員に分かってほしすぎて、道行く奴ら一人一人を捕まえて殴りつけてしまいそうだ。まるで無差別テロみたいに。いや、まるでも何も、無差別テロだ。だからもちろんその時は、三分で跡形もなく消し潰してほしい。そこまでを期待して、殴りたい。

 

(分かってくれ。分かってくれよ、頼むから。分からないなら消えてくれ)

 

 無意味な共感欲求は、四杯目のビールのように惰性で飲むからぬるくなっていく一方だ。

 クソくだらない。

 

 そこでクロウは思い直す。じゃあくだらなくないことを考えよう。

 最近よかったもの。

 

 ナイフを研ぐティスの手。あれはいつだって良いものだ。朝でも昼でも深夜でもいい。最高だ。

 雑貨屋で見つけたロッタフロッグのゴム人形。目がラリっててウケた。キッチンの横の棚に置いて朝、歯をみがくときに眺めたい。

 ローゼンのステーキのアサイーソース。フルーツ系はクソという認識だったが、あれは普通に美味かった。目の前で同じものを食ったカリシュは噛むのを三秒ぐらい止めていたけれど。

 カリシュと言えば、こないだの炭鉱で、あのプリーストが叫んだのをクロウは初めて見た。モンスターが沸きすぎたとき狩場を退いたのだが、退路先がさっきより酷いモンスターハウスだった。「来るな!」と、あの男は後衛に叫んだ。その時の眼を思い出す。

 ああいうのは良い。

 

 クロウはのけぞりながら目を閉じる。首元が苦しいが、今はそのほうがいいと思えた。

 ぬるくなったのはビールじゃなくて、性欲だ。

 義務感からくる食欲というものがあるのなら、同じように義務感からくる性欲というものも、あるのだろうか。まだその境地には至っていない。心臓がベタついて仕方ないから、ウォッカでサっと消毒したい。その衝撃で痙攣して止まるなら、もうそれでいいような気がする。ベタベタしたまま生きるのとスっと洗浄して死ぬのと、究極の二択じゃないか。どう思う。道行くプロンテラ人はきっと、殴りつけないと答えてくれない。

 首をのけぞらせているせいで、血がいつもと違う方向にめぐっていく。気持ちいい。窒息しかけているのに。

 

 例えば、相方は、こういうときに後ろから、「どうしたんだよ」と声をかけて、隣に腰を下ろして、紙袋を寄こしてくれる。その中にはクロウが本来食べたかったスイートポテトドーナツみたいなものが入っていて、中身を確認してから「はあ?」と一旦思うけれど、食べてみると嫌いじゃない。「お前に必要なものはそれだよ」と、ハーブの入っていない煙草に火をつけながらあの男は片頬で笑うだろう。そういうのを当たり前のように受け取っていた時期もあった。

 でも結局、そんなものは幻想だ。子供のころ集めていたコルク栓みたいなものだ。あるいは、兄のやっている宿題が、この世のものとは思えないほど難問に見えるのとほとんど同じじゃないか。

 

(アニキって)

 

 そういえば昔、ディーユに聞いてみたことがある。

「お前、兄貴キライなの?」

 尋ねたクロウに、相方はやはり視線を流して片頬を持ち上げる。

「別に?」

 けれどそう答えてすぐに、「いや」と歯切れ悪く彼は否定してから、「やっぱ、どうかな」と言葉を濁した。

「お前はどうよ」

 そしてすぐ、まるで会話の流れのように、話題のグラスをこちらに差し出してくる。あのブラックスミスが人の話を聞くのが上手いのは、二つのメリットのただの結果だ。ひとつ、ほとんどの人間は自分の話を聞いて欲しがっていることを、奴は知っている。ふたつ、奴自身は、自分のことを話して弱みをさらしたくない。

「俺のはどうでもいーんだよ」

「なんで? 同じ兄貴じゃん」

「うちのは完全に二人の世界だから。俺がどうとか、そういう余地ねえんだよ」

「あはは」

 浅く笑って、相方は視線を落とす。

「同じだぜ」

 呟くように、ディーユが珍しく、本当のことを言った。

「あいつも完全に、一人の世界だよ」

 

 あの横顔を見ている時、彼が可哀想だなとクロウは思わなかった。ムラっとくるな、とは思った。相変わらず、ブラスミの服、エロすぎるだろ、とも思った。一発ヤりたいかと言われると、それは分からない。自分の中にだけある価値観を判断基準にして、性的か、性的じゃないかを白黒つけることはできるけれど、それと自分のセックスが、なんだかもう結びつかなくなっている。どちらかと言うと、自分の血肉を切って分け与えることのほうが、今となってはセックスによほど近いと思える。いや、セックスではない。命のやり取りだ。

 たぶん、クロウは昔から、命のやり取りがしたかった。

 

(……そうか??)

 一秒後に首をかしげる

 そんなわけない、馬鹿らしい。

 死にたがりじゃねえんだから。

 ぬるまった性欲とぬるまった食欲のせいで、思考回路までが温度を奪われている。あるいは、あとの二人が呼ばれたのだからと出番を待っていたぬるまった睡眠欲が、しびれをきらして自分からやってきている。

 くあ、とあくびが漏れた。

 

 本当はこんな街中のベンチでのけぞったまま物思いになんかふけりたくない。寝るならベッドで眠りたい。でもやっぱりその前に何か食べたいし、食べる前に身体を洗いたいし、どうせ身体を洗ったのならオナニーもしてしまいたい。

 日はまだ落ちない。

 

 最悪だ、とは思うけれど、思いすぎて感覚がマヒしてきた。これがずっと続いているなら、本当は最悪なんかじゃないのかもしれない。毎日が最悪なら、それはただの日常だ。

 いつのまにか開いていた瞼を、クロウはもう一度とじてみる。

 

(でも、もし、俺がお前の兄貴だったら、俺はお前を一人きりの世界に、したりはしなかった。ちゃんと叫んだよ。『来るな』って)

 

 幻想だ、という判断はつく。

 けれど、コルク栓はぬるくならない。

 

 

2017.09.14