絡み酒

 愛しているの、と問われて、分からない、と答えることが多い。本人になら、意図は分からずとも理解できなくもない現象だが、問われるのは必ず、他人にだ。あの人のこと、愛しているの。
「分からない」
 答えている時、自分の心はほどほどに虚無だとカリシュは思う。感情がある状態なら、煩わしくて回答を発音する気にすらなれない。投げられた言葉を反射的に投げ返すのは、大抵、思考がこの場にいない時だ。それは大抵、宿屋の酒場の片隅で、そういう時はいつだって目の前に極上の美味いワインか、とんでもなく不味いワインがある。今日は後者だった。ひとくち飲むたびに、グラスの中の液体をのぞき込んで、こんなワインができるに至った歴史的背景だとか、こんな飲み物を作ったワイン屋の酷くくたびれた人生だとか、質的にはたいして変わらない自分の矮小な人生だとかについて、考えてしまうほどに不味い。だからそちらにばかり気がいってしまって、隣で虚無的な質問を繰り返すたいして知り合いでもない人間のことには注意がいかない。そういう夜だった。
「だったら…」
 隣の人間はまた何かを言おうとしたのだろうが、その時、カウンターの反対側にガタリと誰かが腰かけた。照明はランプの暗いオレンジしかない酒場だったが、気配に覚えがあったのでギルドの誰かだろうとカリシュは思った。実際、知った声がそちらからした。
「なあ、腹へらねえ?」
 声はクロウだった。誰に尋ねたのか分からない。しかし隣の人間がクロウの知り合いだとも思えない。カリシュは仕方なく答えた。不味いワインがあったから出来た芸当だ。
「別に」
「じゃあなんでずっと飲んでんだよ」
 ちらりとクロウの方へ視線をやると、彼も片手にジョッキを持っていた。木製で中身は見えないが、ワインか麦酒か、ともかく酒の部類であることには違いない。
「飲んでも腹は減らない」
「俺はその、なんもねえお前の飲み方、いっつもどうかと思ってたんだ」
「何が」
 意図どころか、意味すら分からず、カリシュはクロウの表情を見る。テーブルに両腕を乗せ、明後日の方を向いたまま、クロウはいつも通りの心底つまらなさそうな顔で、「くだんねえよな」と言った。その言葉にだけは同意する。
「でも、ムカつくんだよ」
「……」
「ほっとけよ、って思ってんだろ? 俺だっていつもはそう思うよ。だから今までほってきたんじゃねえか。したら、ダラダラそのまんまにしてんのな、お前は。怠けすぎじゃねえの? 人間に対して」
「何が言いたい」
「お? いっちょまえに怒る? 俺に対しては?」
「違う、言ってることの意味が分からん」
 は~、と、よく分からない声を発してから、クロウは持っていたジョッキの中身を飲み干した。
「だからさ、俺は、ギルドの拠点の、こんな常宿の酒場で、毎回毎回、意味も分からん女に、絡まれて、口説かれて、あげく説教されてるお前の、その態度のことを言ってんの。追っ払う方法ぐらい身につかん? いくつ? ここどこ? イズルードの片田舎じゃねえんだぜ?」
 なんだ、そんなことか、とカリシュは思う。気づけば反対隣に居た人間は、どこかに退散していた。どうでもよかった、ただそれだけだ。
 クロウにはお節介なところがある。その面倒さは、彼の相方に似ているように、カリシュは感じる。

 

「何年そのお面を顔のど真ん中に引っ付けて生きてんだよ、お前は」
「普段はあしらってるだろ」
 別に今夜だって特別に相手をしていたわけではない。いつもの手法ではどいてくれない奴もいるだけだ。
「そのやり方のことを言ってんの。積極性に欠けんだよ、お前のやり方は」
 自分が何故、このプリーストに絡まれるのか理由が分からない。さっきこの男自身で言っていた普段のクソみたいな絡まれ方と、今のこれがどう違うのか、それだってひとつも分からない。どこからか女が一人寄ってくる。そしてクロウにこう言う。「あらクロウ、今日はめずらしく男前と飲んでるのね」するとクロウは女に目もくれず言い放つ。「うっせえ、話しかけんな。ワイン瓶でも突っ込んでろ」
 これがこの男の言う今まで生きてきて身についた人間に対して怠けてない追っ払い方、なんだったら、このプリーストの言う事こそろくでもないのではないか。

 

「くっだんねえ奴らにさ。彼女のこと愛してるの、って聞かれたら、ああ愛してる、でいいんだよ、クソ野郎かよテメェは」
 他人のセリフのところだけは妙な声でクロウがそう言った。
「ザルか? お前の水袋は葦で編んであんのか?? 審判する主もビックリだろうよ!」
 聖書によれば、最期の日に人は、今まで周囲に注がれた愛の量に等しいワインが入った水袋を持って、天の門を潜るらしい。おそらくその話だろうとは思うが、目の前のこの男がそんな知識を持っていたことにカリシュは少なくない驚きを覚える。しかし彼がどれほど不信心者であろうと、アコライトからプリーストになった男なのだから、当然といえば当然なのだ。
「俺は、クソムカつくけど、自分の面には反吐がでるほど感謝してんだよ。ハードル下げてくんなきゃ相手にもしてもらえねえ血だまりみたいな世界じゃな。無自覚なお前とは違って。腹たつなあ、クソ」
「酔ってるな」
「ああ、酔ってるな! 酔ってなきゃお前とは喋んねえしな俺は! 馬鹿じゃねえから! 俺とお前じゃ釣り堀にベーコン投げ込むよりヒデぇことになんの、目に見えてるしな!」
「絡むな」
「うっせえな。もっと早く言ってやりゃあ良かったよ。そしたらクトノだって、もうちょっとマシな時間の使い方ができただろ。あのウィズの女だって、そうかもしんねえ。なにせ『分からない』男といるよりは、いくらクソみたいな世の中でも、もっと有意義なことがあんじゃねえの」
 カリシュは酒場を振り返る。生憎、ディーユの姿が見当たらない。だったら誰がこの金髪を連れて帰る? 愚問に寒気がして、ワインを飲み込んだ。人生を彷彿とさせる不味さなことを、また思い出す。銘柄を、覚えておかなくては。二度とごめんだ。
「お前だったら、違うっていうから、安心しろ」
 半ば自棄になって、カリシュはグラスを置いた。クロウはアン?と片眉を上げた。
「トーゼンだろ、俺は…」
「違う。愛してるのがお前か、と聞かれたんだったら、俺ははっきり、違うって答える。お前じゃなくても、誰でも。他の奴ら全員だ」
 クロウは一瞬、ぽかんとした表情をしたが、次にはもうつまらなさそうに前を向いて、肘をついた。
「ふーん」
 突然気力を失ったかのようにクロウは前のめりに倒れ、ジョッキをおざなりに払い除ける。だからこの話は終わりだ。

 

「……だったら愛してるぐらい言えよ」
「うるさい。関わってくるな」
 飲み切ったグラスの底にある、わずかな赤紫の色を眺めながら、カリシュはベッドまでの最短距離を思い描く。
 その隣で、突っ伏したままクロウが、くぐもった声を出した。
「お前に言ったんじゃねえよ、分かってんだろ、死ね」

 


2017.10.19