教会のお仕事

 灼熱のような太陽が、プロンテラの石畳を肉でも焼けそうなぐらい照らしつけている。暑さのせいで若干揺らめいてすら見える中庭の床を、二階の窓から眺めながら、ナツキはため息を押し殺した。ここは屋内で、地面から少し距離があるから、まだマシなほうだ。そうは理解していても、熱で苛立った思考が上手く整理できない。こんな環境で仕事をさせられる苦痛は、何の罰なのだと考えてしまう。自分は何の罪を犯した。息を吸うのも躊躇われる暑さの中でプリーストの黒法衣を着せられて紙の束をあっちからこっちへ僅か数メートルの移動を、何度も何度も繰り返させられる。出しては戻し、出しては戻し、戻しては出して、出しては戻す。刑期は後30年程度。

 

(死ぬ気か)

 

 いや、いずれは死ぬ。別に書類を出して、戻さなくとも。けれど、そういう事ではない。というか、なんてくだらない考えだ。

 

(駄目だ、字がにじむ)

 

 ナツキは一旦ペンを置き、テーブルの端にあった布を無造作に利き手で掴んだ。目の粗いハンカチのざらりとした感触に、少しだけ気がまぎれるがそれも束の間だ。息をつく暇もなく、隣のテーブルにどさりと新しい書類が置かれた。置いた男が物を言わず、木の椅子を引いて腰かける。ナツキよりはほんの少し長めの髪であるのに、男は額に汗ひとつ浮かべていなかった。この部屋でさっきから同じ作業をしているこのプリーストは、なんだか涼しい顔をしているからナツキには面白くない。いや、もうこの男の存在がそもそも面白くないから、そう感じるのだろう。

 なんて言ったってこのプリーストはナツキと違い、普段は冒険者をしていて、気が向いた時にだけ教会に来て、書類の仕事を『お手伝い』して、好きな時間に帰れるご身分なのだ。なんだそれ。

 いや、分かってはいる。彼はナツキのような幹部候補ではない。こんな仕事、実働分の給料こそ支払われるが、彼がそれを担うことによる社会的メリットは、ほぼない。彼は自分の上官の一方的なお気に入りで、この仕事をいわば押し付けられている。彼は渋々やっている。それは理解できる。ナツキだって、もし自分がやらなくてもいい立場だったらこんな仕事押し付けられたくない。それをやっているのだから、まだ素直なほうだ。でも、だがしかし、その『やらなくてもいい立場』って、なんなんだ。

 

(あーもう、分かってる。分かっているって、俺は)

 

 自分で、この場所を選んでいるんだ。

 インクがかすれかけてきたペンの手を止め、ナツキがため息をつくために息を吸ったその時、書庫のドアがギュっと音を立てて開かれた。

 空気が動く気配があったが、熱風だったので心地よさはまるでない。ただ、入ってきた人間の顔をみて、ナツキの背は自然と正された。

「アレイスさん」

「なんだい、ここ。暗いね」

 上官は、何冊か本を持っていた。彼の首にはチェーンのついた眼鏡がぶら下がったままだった。

「目が慣れたらそうでもないですよ」

「ランプを灯せばいいだろうに」

「冗談じゃない。その本、返しておきましょうか」

 ナツキが手を出せばアレイスは自分の手元のそれに気づき、

「ああ、じゃあよろしく頼むよ」

と本を手渡したのち、手近な椅子に腰を下ろした。部屋の一方の壁には長机が設置されていて、同時に五人は書類作業をすることが出来る。

「なにか不備でもありましたか」

「いや、まあ、様子を見に来ただけだよ」

「は?」

 アレイスが自分に対してそんなことをするわけがない、という確信からナツキが聞き返すと、案の定、ナツキの意味を汲み取った上官は浅く笑いながら、

「君じゃない、彼」

と、奥の男に目をやった。

「調子はどうだい、カリシュくん」

 そこで初めて、それまで我関せずと作業を続けていた彼が、入ってきた上官に対して顔を上げた。

「いえ特に」

 彼はその、整いすぎているせいで不思議と見覚えのあるような気になる彫像と同じ印象の顔を、まったく表情として動かさず、答えにもならないような一言で答えた。

 あまりに人間味の欠いた様子に、アレイスはいっそ関心を持ったようで、次の質問はほとんど素のトーンだった。

「君、気分の浮き沈みとか、ないのか」

 カリシュは手を止め、僅かに眉を寄せて、息をつく。

「ありますよ」

 そして、視線を書類に戻しながらどこか諦めた調子で仕事を再開させながら、片手間のように彼は付け加えた。

「まあ、ここに居る時に浮かびはしませんが」

「へえ」

 アレイスは上官たる自分が話かけている最中に他所事を再開させる男のことを叱りもせず、むしろ興味深そう笑った。

「なら、どういう時はそうなんだ。だって彼、酒飲まないだろ?」

 アレイスが、何故かナツキに向かってそう言う。アレイスは本音に近い言葉を話すとき、普段の神父然とした柔らかい口調ではなく、粗野で切り離したような話し方になる。信頼の証だとナツキは考えているし、この態度の彼にはナツキもいつもより真摯に応じていると思う。でもだからと言って、正直、カリシュの平常時の飲酒量なんていう情報など知ったことではない。ほとんど、どうでもいい気持で、ナツキは本に視線を落としながら、投げやりに答えた。

「さあ。でもコイツ、女いるんで、そのときじゃないですかね」

「えっ」

 声を上げたのはアレイスだったが、同時にカリシュも顔を上げた。おや、この話題は石像プリーストの顔を引き上げる効果のあるテーマだったらしい、とナツキが思った矢先、それ以上に関心をいだいた様子の上官が立ち上がってカリシュの傍に寄った。

「あ~、そう。そう。いや、いるの。知らなかった」

 アレイスは驚きの混ざった声でカリシュに声をかける。なんだか予想外に高揚しているようだった。

 カリシュはちらっと上官を見た後、対処を億劫がるように、ナツキのほうへ視線を寄越した。もちろん、ナツキは何の助け舟も出さない。

「いるんだ。いや~女? そりゃ都合がいい。なんだい、早く言ってくれればいいのに。まあいいや、めでたいね。すぐに籍を入れなさい」

「!?」

 カリシュが驚いてアレイスを振り返る。その表情が、ナツキの今まで見た中で一番、人間らしい顔だった。正気かコイツ、と言わんばかりの人を疑うような驚嘆の視線だ。

 アレイスのこの悪癖には慣れていたナツキはいくらか冷静に、そして日頃の鬱憤も込めて、言葉を挟んだ。

「そうだよ、けじめつけろよ」

「……」

 苦々しい顔でこちらをじっと見るカリシュを見ていると、自然とナツキの口元には意地の悪い笑みが浮かぶ。

「式はミシュラン神父にお願いしよう。スケジュールを抑えるのに少し骨が折れるかもしれないが、なんとかなるだろう。場所は大聖堂……いや、君ならカピトーリナのほうがいいか。そうなると夏と冬は避けないと、あそこは吹きさらしだからなぁ。あ、相手はアサシンじゃなかろうね?」

「……」

 長々と一人で語るアレイスを眺めて、カリシュも段々とこのタヌキ男の魂胆が理解できてきたらしく、先ほどの驚いた様子とは打って変わって心底くだらなさそうに、上官に対して口を開いた。

「彼女と籍を入れたところで、ここには籍を置きませんよ」

「わあ。本当にいるんだな、女」

 アレイスはいっそ感心するような顔でカリシュのそれにこたえる。

「そもそも、どうしてそこまで私を置きたがるのか、理解しかねる」

 同意見だ、とナツキは思う。そしてアレイスが彼にそうする真の理由をカリシュ本人が理解していることも知っている。さらには、その話題が自分の上官にとって、タブーであることも。

 簡単に言うと、親友とは名ばかりの同性の恋人が、アレイスには昔いて、その男は不自然な失踪の末、事故死扱いになっている。カリシュはその男が青年時代拾ってきた孤児だ。

 しかしこの二人のプリーストは、ナツキの目の前でその男の話をしない。ナツキがこの情報を独自に得ていることも知らないだろう。(まあ、アレイスの方は本当のところ、どこまで知られているのを知っているのか、ナツキには分からない。なにせタヌキなので。どちらにせよ、表面上は知らない体をナツキが取っている限り、自分から話すことはなさそうだった)

 

 今は亡き、過去の秘密の恋人。なんだかアレイスには似合わない匂いだ。出世のための効率重視の人生を最優先するこの男が、そんなものに時間と労力を割くのだろうか。

 ―いや、割いていたのだろう。或いは過去の彼は、今の彼と別人だったのだろう。だからこそ、その男のことを探られたくないのだろう。そういう微妙な空気をナツキは感じ取っていた。

 

 だからこそ、この手の話題には少し神経が機敏になる。カリシュはまっすぐにアレイスを見ていた。なんだったら、これが地雷だとしても爆発してしまって構わないといった顔ですらあった。けれどもアレイスは、カリシュの視線を飄々と交わして、何にも触れず、何を含むこともなく、ただ得意そうに笑った。

「単純なことさ。えこひいきだよ」

 アレイスが微塵も動揺しなかったことに、ナツキはどこか安堵した。上官はナツキの肩に片手を乗せて言葉を続ける。

「この男を手元に置くのも、えこひいき」

「彼と違って、私はよほど使えない」

「あっはっは。君は大きな勘違いをしている。このプリーストは、使えるから置いたんじゃない。置いてから、使えるようにしたんだよ」

「いや、アレイスさん。さすがにもうちょっと評価してくれてもいい気はしますけどね」

「あれ? 拗ねる」

「少なくとも、コイツよりはやる気ありますよ」

「君も大概だったけどねぇ」

 だから君も大丈夫だよ、とアレイスは締めくくってカリシュを見た。

 カリシュは随分と納得できない顔をあらわにして、肘をついた。アレイスは、既に自分の中で話が切り替わってしまったかのように、あっけらかんと、視線を逸らした。

「この仕事は人を選ぶからなぁ」

 そりゃそうだろう、とナツキは内心反吐が出るほど同意した。

「でも君、才能あると思うんだよ」

「どこがです」

「このクソみたいな業界の意味不明な習慣とストレスに、適応できるところとか」

「まさか。できなかったから出たんでしょう」

「できてるから、その話し方なんだよ、君は」

「……」

 カリシュはまるで、子供の罠に引っかかったように言葉をとめ、そして同じく、子供のようなやり方で言葉を返した。

「これはただ、面倒だからだ」

「あー、惜しいなぁ。まあ、いつでも来ていいよ。前みたいに、君が困った時だけ、ここを利用してくれるんでも、私は全然かまわないしね」

「……」

 ナツキはいつのまにか、カリシュに腹が立つ気持ちより、アレイスのいつものやり方(そう、それこそこのクソみたいな業界特有のクソみたいな正攻法に則った、クソみたいな揚げ足の取り方)の被害者に対するシンパシーのほうが強くなってしまっている自分に気づく。教会内の会議では頼もしいほど無双のアレイスの手口だが、正直、日常でまで付き合っていられない。早く切り上げるのが吉だろう。

 

「やりたくないって時点で、向いているとは思えませんけどね、俺には」

 ナツキの発言に、二人の視線がこちらを向いた。

「まあ、雑用手伝ってもらえる分には、わりとありがたいですけど」

「ふむ。まあ、だったら、君の良きにはからいたまえよ。一応、形的には君の助手だから」

 

 カリシュはこの話題から解放されたと思ったのだろう。あきれたような溜息をひとつついて、また書類に向き直ろうという様子を見せた。

 さっき同情したばかりの男だが、ナツキが許したというわけでは別に無い。

「なら、監督者から意見を言わせてもらうとすると、」

 自分の口に浮かんだのが、また意地の悪い笑みなのだろうなとナツキには分かった。自分はもしかすると、最悪なことに、上官に似てきているのかもしれない。

 

「女と、籍は入れたほうがいい」

「それはそうだ、早く入れなさい」

「……」

 

 

2016.08.12