欄干と思い出ランチ

 「おい」と、真上から掛けられた声に、クトノは顔を上げる。何かとてつもない既視感を覚え、いやそんな客観的な判断を下すまもなく、反射的に――まったくいつもの通りにその声の方向へ振り返れば、そこにはやはり直感どおり、その男がいた。王城堀の大通りから少し離れた露店並び。潮の香りのしない風。人のたえることのない昼下がり。首都、プロンテラの午後。

 心地の良い時間に、売れない商品に、少しぼうっとしかけたクトノの意識を、冷めた声で引き戻すのはいつも彼、元相方のプリースト、カリシュだった。

「……お、おう」

 まさか彼が、ここに来るとは思っていなかった。しかし何故だか、後ろから自分を呼んだのがカリシュだと一瞬で分かった。昔の習性というのは恐ろしい。

 クトノが久々に訪れた首都で、クレッセンスのベース宿に泊まったのは昨日。仲間たちと飲み交わした酒の席に、カリシュは居た。話もすることにはした。けれど、今日、アルベルタに帰る前に首都で露店をしていくつもりだとは、一言も言ってない。聞かれてもいない。

「なんで……」

 クトノが後ろに立つカリシュを眺めながら、沸き起こる大量の疑問のうちのほんの少しを口から漏らせば、銀髪の前髪の奥で不可解そうに眉が寄せられた。

「何が」

「いや、俺、言ったっけ」

「はあ?」

「露店……」

「首都に用って、これしかねえだろ」

「いや、あるだろ、つーか、あるし、あったし」

「ふーん」

 相変わらず神父とは思えないほど慈悲も愛想もない冷めた表情で、カリシュは適当な相槌を打つ。

 考えてみれば、クトノが露店を出すのは、いつもこの場所だった。正確には、南門広場や噴水広場にも露店を出すことはあったけれど、それは商品やターゲットが絞られているときの話で、『なんとなく』な気持ちで露店を出すのは、いつも、この堀のあたりだった。北に位置するこの通りは、大聖堂からも近い。

 特別な意味を考えたことはないが、昔はだいたいこの辺で露店を出して、だいたい昼下がりに食事を買って、だいたいその頃に仕事を抜け出してくる相方と、街が少し見渡せる橋の上でだらしのない時間にランチを取ることが多かった。それらの行動の意味を真剣に考えると羞恥心から爆散しそうなので、あえてその意図は考えないが。かんがえたくないが。

(いやもう、別にいいじゃないか、付き合ってたんだから、あんときは)

 クトノは、内心、誰に対してか分からない無意味な言い訳を続ける。

(ああでも今日はそんなつもりじゃなかったぞ、絶対。ここに露店だしちゃったのは、癖みたいなもんで……)

 第一、自分は二人分の昼食を買っているわけじゃないし、と理由の続きを並べ立てていると、ふと、カリシュの持っている小さな紙袋に目がいく。おい待てなんだそれ、と思う前に、彼はそれを投げて寄越した。咄嗟に受け取り、クトノは頭の中が白くなりながらも中身を確認する。

「な、んだよ」

「メシ」

「なんだよ!?」

 は? と、またカリシュが眉間に皺を寄せた。

「なんなの、お前、どうしちゃったの!?」

「もう食ったんなら捨てろ」

「そういうことじゃねぇよ、なんでお前が飯をだな」

「俺は食ってねえんだよ」

 ああ、今日は、教会の仕事だったんだな、とクトノは察する。察しはするが、だからなんだ、とも思う。だったら、なんだって言うんだよ。さすがに「一人で食えよ」とまで、クトノは思わない。食事は誰かと取りたい派だから。でも「なんで俺だよ」とは思う。別に、意図なんて、ない、ということも、分かる。

(コイツのことだから)

 まるで、意図なんてない。

 ルーティンのひとつだと考えたほうがいい。

 生活の上で繰り返される動作のうちのひとつ。

(考えすぎるのは、馬鹿だな)

 食事を取るか、取らないか、だけの話だ。しかも奢りで。

「俺もまだ食ってないし、ちょっと片付けるから、待てよ」

 クトノがそう紙袋を投げ返すと、カリシュは片手でそれを掴んで、イエスともノーとも答えずに、二秒だけこちらの目を見てすぐに逸らした。それを了解の意と取り、クトノは手っ取り早く露店をカートにしまいこむ。

 食べる場所は、やっぱりあの橋の欄干がいい。これはルーティンなのだから。なにより、あそこは見晴らしがいいし、風の流れも丁度いい。意味なんてあったってなくったって、別になんでもいい。そういえば、昨夜の宴会で、一応カリシュとはずっと隣の席だったけれど、ほとんど中身のある話をしてないな、とクトノは思った。だからちょっと久しぶりな感覚に、驚いてしまっただけのことだろう。

 

・・・

 

 橋のベンチの前にまでやってきて、袋の中を開けると、入っていたのが相変わらずのサーモンサンドだったのには、さすがに笑った。いっそ笑えた自分に、クトノはどこかほっとした。半笑いの状態でプリーストを振り返ると、彼はもうすでに半分以上を食べてしまっているところだった。早い。味わいながら、っていう情緒がない。

「お前最近、なにしてんの」

 ベンチに腰掛けるでもなく、欄干に腕を置く彼にならって、クトノも数歩離れた隣に立ち、街の景色を見下ろしながらサンドを手に取った。質問は、まったく普通の世間話のつもりだった。カリシュとそんな話をするのが、なんだか新鮮だった。

「何って。別に、いつも通りだ」

「いつも通りねえ」

 カリシュとまっとうな雑談ができるなんて、クトノは初めから考えていなかったが、予想よりはるかに普通の面白みのない(ある種まっとうとも言える)返事がかえってきて、なんだか感心してしまう。首都のスモークサーモンは、燻しに使うチップが美味い。加工食品で、首都に勝るものはない。

「こんなところ来ていいのかよ」

「何が」

 自分と昼食を取って、この男に一体なんのメリットがあるのだろう、とクトノはぼんやり思った。その疑問は、もしかするとずっと以前からクトノの心の一部を支配し続けていた根本的な疑問の一部かもしれなかった。ただ、今、手に取ったこの疑問には、もっと具体的な目的の謎がある。どうして今更、カリシュが自分のところに来るのだろう。そもそも、来ても大丈夫なのか。許可は。

「ほら、あの、女の子、ウィザードの」

 クトノは頭に、ふわふわ金髪のエルフ耳を思い浮かべながら、それでも彼女の名前が出てこない。カリシュはこちらを不可解そうな顔で見る。

「……フィオナ?」

 彼の口が、ぼそりとウィザードの名をつげた。

「そう、フィオナさん。いいの」

 尋ねても、カリシュはまだ、意味が分からず気持ちの悪そうな表情を続けたままだった。

「だから、何がだ」

「いや、俺と飯食って」

「ああ?」

 カリシュの眉間にぐっと皺が寄った。彼はもうすっかり、サンドウィッチを食べ終えてしまったようだった。

 あのウィザード―フィオナと、付き合っていると言っていたのは、カリシュだ。クトノの白昼夢でなければ。ディーユとクロウから、カリシュがギルドの新人を即行食ったと聞いたときは、間抜けな喜劇とむごたらしい悲劇を同時に想像したものだったが、後日、本人の口から聞いたその言葉は、以外にも落ち着いたトーンだった。

 元恋人と、二人きりになっている状況を、カリシュが積極的に理解しているとは思えない。彼の鈍感さはプラスに働くことも多いが、時折どうしようもなく鈍器に似た暴力性を持つ。

 クトノはしばらく黙ってカリシュを見ていた。カリシュは話の道筋を初めから思い返して、ようやく意図に気付いたらしく、「え」と声を漏らした。

「駄目なのか」

「いやいや、俺は知らねえよ」

 フィオナの人間性を、クトノが把握しているわけがない。カリシュは苦く表情を崩して、つぶやくように尋ねる。

「普通、まずいか」

「普通!」

 思わず噴き出してから、クトノは堪らずにため息をついた。

「お前の口からそんな単語を聞く日が来るとはね。いっそ感慨深いわ」

 まったく答えになっていないその返答に、カリシュは不服そうに視線をそらす。

「……だったら、お前のほうはどうなんだ」

「俺?」

「俺とメシ食ってちゃ、まずいのか」

 思わぬ方向に尋ね返されて、クトノの脳裏にはマリアンナの顔がよぎった。それから少しだけ、彼女の話し方を思い出す。

「え、いや、別にまずくはないと思うよ」

「ふーん」

「別に未練があるわけでもないしなぁ」

「へえ?」

 だらしなく欄干にもたれかかったまま、カリシュがちらりとクトノを流し見、浅く笑った。

 おそらくそれは嘲るような笑みで、クトノは少なからず驚いた。嘲笑ではなく、なんというか小馬鹿にするような、いや、もっと親しみ深い、そう、まるでジョークを言うような笑みだった。

 

(コイツ、こんな笑い方したっけ)

 カリシュと視線を合わせたまま、クトノは思う。

(いやそもそも、コイツ、笑うっけ)

 

「なんだよ」

「……いや、別に」

 なんだかよく分からない気持ちになる。カリシュのことも、もちろんだが、自分でも自分が分からない。

 クトノはぼんやりしながら、懐から煙草を取り出した。もともと女性の前ではあまり吸わなかったけれど、妻の体に命が宿ってから以降、彼女の前ではまったく吸わなくなった。アルベルタの空気は潮の香りがするから、煙の味を必要としないのだ。けれどプロンテラに来た時は、街に着いた途端、南門の前で不思議といつも買ってしまう。

 箱から煙草を取り出して火を付けたところで、隣からすっと手が伸びてきた。クトノが顔を上げれば、一本寄こせとカリシュが目で訴えている。どうしようもなく、抗えない。クトノは視線を下げて欄干の石のざらつきを見ながら、黙って箱ごと、煙草をカリシュに渡した。隣で、火を打つ音がする。

 

「なあ、マーニーとさ。お前、文通してるって、マジ?」

「あ? してねえよ」

「だ……だよな」

「たまに送ってきてるだけだろ」

「え? 何を?」

「魚」

「さかなァ? え、あいつが? 送ってんの、魚、お前に?」

「礼なら返してるだろ」

「お前が??」

「他に誰がだよ。ギルドで食べてるから、礼にはシェインがうるさい」

「そ、そう。みんなで」

 

 ならいいんだ、とクトノは返答してみるものの、何がいいのか自分でも分からない。

 紫煙を吸い込むと、思考が一気にタイムスリップする。匂いは、記憶を蘇らせるきっかけとして優秀だ。その匂いをかいでいた時に、起こった出来事、あの時に感じた気持ちの詳細、なんだって思い出す。一瞬で、今までの記憶、全部を。だから、何も言葉にならない。

 マリアンナが何を思って、魚を送るのか―たぶんただの挨拶なのだろうけれど、それも親しみを込めたたぐいのそれなのだろうけれど、でも、本当のところがどうなのか、クトノにははっきりと確信が持てない。

「女心は難しいな……」

 女どころか、男だって、もはや自分の心だって、なんにも分かっていないのに、クトノの口からは、どこかの芝居で見た定型のセリフがついて出た。

 それに思わぬところから、質問が来る。

「そうなのか?」

 カリシュがこちらを見ていた。

 そういう返答のしかたを、元相方がしたことで、クトノはずっと感じていた彼の変化の一部に、また触れてしまった気がした。コイツだけは雨が降っても槍が降っても、何にも変わらないのだろうと思っていた男が、ちょっと目を離した隙に、なんだか変わっていきつつある。喜べばいいのか、戸惑えばいいのか、ムっとしてみればいいのか、それすらクトノには分からない。

 だったらもっと早くに変わってろよ、と思わなくもないけれど、自分の時に変わられていても仕方なかったなと思う気持ちは確かだ。結果的にはこれでよかった。後は植物の成長でも見守るような気の長さで、眺めて楽しむに限る。すると自分のするべき楽しみ方というのがおのずと分かって、クトノは頬杖を突きながら、ゆっくりと微笑んだ。

「なあ。ひとつだけ、先輩としてアドバイスしてやろうか?」

カリシュは眉を寄せて「なんのだ」と不可解そうに言ったが、「女心の」とクトノが言葉を足すと、眉間の皺はみるみる消えた。

「女の子は、煙草いやがるぞ。キスが苦くなるから」

 一瞬、カリシュは僅かに目を見開いたが、次の瞬間には右手に持っていたそれの存在を思い出したようで、火を素早く、もたれ掛かっていた石の手すりで磨り潰した。

「はやく言え」

 なぜだか不服そうに呟く彼の姿を見て、いっそあきれるほど望み通りの展開となった結果に、面白いような少し惜しいような気持ちで、クトノは思わず破顔した。

 ははっ、と笑ってみたけれど、カリシュがそれにつられて笑うことはもちろんない。彼は、まだ日が暮れかけてさえいない静かな午後の空の下で、欄干にもたれかかりながら、眼下に広がるプロンテラを眺めている。クトノの中で、なにか懐かしい味が、咽喉の奥からじわりと広がった。ああ、変わっていない。いつも、こうだった。気を抜くとすぐ、言葉は無くなって、ただ喧騒が遠くに聞こえる。上空の雲の流れは速く、地上でもときどき、びゅっと風が吹く。彼はいつも、じっとしていた。何を考えているかは分からない。クトノも何かを尋ねたりすることはない。

 どこか遠くを見つめたまま、風に吹かれる前髪がちらちら揺れるその横顔を、眺めているのが、好きだった。

 好きだった。あの時は。

 

 

2016.08.31