Wait until dark (2)

【分岐点の夜| A turning point in my life.】

 

 

 

 【 Theo 】

 

 ディーユくんと出会った日の夜、彼はそんな話をしてから突然、糸が切れたように眠ってしまった。心地のいい寝物語が終わってしまって、俺はしばらく彼の寝顔を眺めたまま、その静かな余韻を味わっていた。

 

 お互い、すごく酔ってた。俺はたぶん、あんなにお酒を飲んだのは初めてだった。これからも、あれきりだと思う。

 たくさん飲まされて、それでも嫌な気分にならなかった。それどころか、彼の手練手管に乗せられてみるのがすごく楽しかった。あんなブラックスミスに会ったのも、あんな気分になったのも、全部初めての経験だったから、イレギュラーすぎてボーダーラインがおかしくなっていたのかも知れない。俺は普段はもちろん、初めて会う男と足元がふらつくまで深酒をしないし、初めて会う男が手を引くままに宿屋に入らないし、初めて会う男とセックスをしたりしない。

 

 初めてディーユくんを見たとき、彼は酒場の入り口にほど近い席で、女性と二人だった。その彼女と俺は少し顔見知りで、俺が現れるや否や、彼女は逃げるように帰ってしまった。

 ははあ、って思ったよ。二人は一線を越える間際だったんだろうっていうのは、すぐに分かった。

 不思議と、知人の女性を『逃がしてあげた』とは思わなかった。走り去る彼女の背を何でもないことのように一瞥しただけのブラックスミスの彼が、なにか含んだ笑み浮かべて俺を見上げたとき、その眼を見て、本当に話の断片がすぐに分かったんだ。彼の展開していた物語の1ページに俺は突然入り込んでしまって、でも何も聞かされなくてもその舞台の結末が俺には分かった。俺が彼女を逃がしてしまったから、欠けた役者の分を補ってあげるというのがその話の理屈だった。俺はそれに正しく従って彼の隣に座ったし、彼は脚本が理解できる俺のことを彼の物語のキャストとして認めたようだった。その後、酒場の上の宿に流れ込むことは、きっと全部織り込み済みのことだったんだろうな。

 

「浮気したことないだって?」  

 彼が酒場で尋ねた言葉だ。その時、俺はすでに相当な量のアルコールを飲み下していたけど、ディーユくんは俺より飲んでいた気がする。俺はどちらかというと、酒を勧める人の手をかわすことが得意だから、そういう経験だって面白くて仕方がなかった。

 印象的だったのは、少しだけ長めの黒い前髪から、ちらちら覗く彼の瞳が紫色をしていたこと。変わった色だねと彼に言ったら、「こんな色の髪した奴に言われたくないね」って髪を指先でちり、と触られた。それも嫌じゃなくて、それどころか彼の手が艶っぽくさえ感じた。確かに、薄緑色の髪をしている人は少ないだろうけど、彼が言うその言葉にはそれだけじゃない色々な意味が内包されている。想像すると楽しい気分だった。

 

 どんな話題からこんなことになったのか、思い出せない。それほど自然に、いつのまにか彼と話し込んでいた。

 ディーユくんは驚くほど話し上手だった。俺はただ相槌をうつか、聞かれたことに思った通りのことを答えるだけで、流れるように会話は進んだ。彼は俺の使った言葉をうまく取り込んで次の話につなげたし、考えはしたけれど言葉にできなかった感情まで掬って並べては会話を盛り上げて、それをまるで俺の話題の成果とばかりに違和感なくこちらを褒めた。同年代の同じ冒険者とは思えないほど、巧みな喋り方をする男だった。

 

「ディーユさんって、モテるでしょう」     

 そう笑った俺に、彼は違った笑い方で片頬を上げた。

「モテるよ」

 彼は常に自信家で、それをわざと前面に出していた。けれどそれが虚勢だとか傲慢だとかいう風に思わせないのが、このブラックスミスの本当の話術だな、と思った。

「でも、そっちだって、そうだろ?」

 それはどうだろう、と俺は彼に返したけど、ディーユくんのそれは質問ではなく、彼の中で確定した事実のようだった。今もそうだけれど、彼は初めからずっと俺のことを“そう”扱う。彼の人生で彼が獲得してきた技術と、同等のそれを俺が持っているって、信じて疑わない。なにか過大評価されているみたいな、むずがゆい気分がする。

 グラスを傾けるたび、ひとつしかない氷が音を立てずに揺れて、アルコールの香りに酔いそうだった。俺はいつのまにか、その香りに引き込まれたいと思うようになっていた。普段の自分なら、こんな男には関わらないほうが得策だと思うはずなのに、何故だか彼には気を許してしまう。ディーユくんの瞳の、引力は強かった。

「でも、浮気はしたこと、ないんだ?」

「ないよ」

 彼の中の俺は、彼と同じぐらい女性を操って、それを楽しむ趣味を持っているらしい。その力量があると思われているのを『光栄』と思うのは、もしかしたら倫理の観点からは間違っていることかもしれない。

 でもそういう会話は、冗談の一種だろう。無法者の多い冒険者とはいえ、仮にも聖職者だから。俺は、自分が他人からどう見えているかに関しては、少なくない自覚がある。穏やかで品行方正、絵にかいたようなプリースト。そう見られることに執着みたいなものはなかったけれど、単純な事実だ。俺は真面目に見える。それを俺自身、否定はしていない。だからみんな、俺のことをそう思っている。

 なのにディーユくんは、そんないつもの評価とは、まるで全然違う風に俺を扱うんだ。

 正直、それだけで、ぞくっとしちゃったな。

「してみたくない?」

 だから彼が、俺には恋人がいるって思いこんだままベッドに誘ってきても、俺は本当のことを彼に言いそびれてしまった。ディーユくんがしているのが過大評価だとしても、俺はまだ、その設定の中で彼の視線を浴びてみたかった。

 彼の手が、するりと手首を握ってきたとき、俺は素直に『ああこの人と寝るんだな』と思った。理屈はなかった。けれど彼がそう決めたのなら、それはそうなるのだろう。そういう筋書きを全部、吸い込みたい自分がいる。自分の中の辻褄はまるであってなくて、けれど全部それで良いと思えた。

 飲んだことのない高いブランデーに、初めて口を付けるみたいだった。

 

 

 熱に浮かされた行為が終わったあと、急に静かになった部屋でディーユくんが話してくれたのは、とてもピロートークとは思えないような内容の話だった。それを話すように持って行ったのは俺なんだけど、自分のやり方で彼が話し出したのは少し嬉しかった。こんな人にも効くんだなって。

 あの夜のセックスだって忘れられない出来事だったけれど、彼の昔の話は別の軸でなんだか不思議と心に馴染むものだった。いつ読んだかもどんなタイトルだったかも思い出せないのに、文章だけがいつまでも頭に残っているような、そういう本みたいだ。

 アルデバランの悪い夢のような日々。母に手を引かれて寂れた教会に行く幼いころの彼が、まるで見てきた景色のように思い起こされる。閉塞感や郷愁の念みたいなものが自分の過去のどこかの記憶の深い部分にすっと寄り添ってくる。

 共感というよりは、共通の思い出に似ている気がする。

 酷い臭いがする記憶っていう表現は、言い得て妙だった。厭な過去を思い起こすときには、確かにそんな気持ちになる。俺は他人から必要以上に疎まれたり、誰かに期待して失望したりっていうものに直接的な経験はないけれど、二度と同じことをしたくないしもうまっぴらだと思えるような時間を過ごしたことはあるから、彼の心情を察することは簡単だった。思わず顔を逸らしてしまいたくなるような、できることなら無かったことにしてしまいたいような――とにかく酷い臭いがするんだろう。

 彼の話題は、その選択が寝物語として適切だったとは思えないのに、なぜか不快さはなかった。むしろ、もっと彼の話を聞きたいとさえ思った。今を逃すと聞けないんじゃないか、これは珍しい機会なんじゃないか。そう考えていると、すごく興味深い物のような気がした。ディーユくんは、殊更、そう思わせるブラックスミスだった。

 

 ピロートーク(のような何か)が終わって、しばらくすると彼の静かな寝息が聞こえてきた。眠ってしまった彼を横に、俺は床に落ちた法衣や靴を整えて、水を飲んだりした。

 彼の寝顔を眺めながら水を飲み終えて、俺はさっさと帰ろうという気になっていた。眠り込むディーユくんの顔は、目を開けている時に放っていた強烈な色気と自信が隠れてしまって、いっそ無垢だった。ギャップが大きくて、もっと長く見ていたい気にさせる。けれど、あまり長く見ていたら彼が起きてしまうだろうと想像できた。眠りが深いタイプではなさそうだったから。

 書付を残してから帰ってしまおうと、何か書くものを探して、手帳の中に栞を見つけた。書きつける言葉の始まりに躊躇いながら、俺はなんとなく『どうして俺は帰ろうとしているんだろう』と疑問に思った。彼とこのまま、ここで眠ってしまえばいいんじゃない? とか。

 自分を誘った夜の彼と、眠りこける無防備な彼――そのどちらが本当か、朝に確かめてみたっていい気がしてきた。

 でも、これは本当に意外だったんだけれど、それを恥ずかしがっている自分がいた。

 普段なら絶対にこんなことはしなかっただろうから、迂闊な自分の行動が、少し気恥ずかしかったんだろうと思う。確かに、迂闊になるほど良い物だった。カウンター席を立つ彼が、緩んだ目で片頬だけ上げて見せたのも。あんなにやさしく手を引いたのも。

 先にベッドに腰かけて、俺の腕を引くディーユくんの笑みは、甘かった。よろめく俺の片膝をマットレスの淵に乗せて、下から口づける彼の舌は、同じ甘さがした。あ、キスをするのか、と思って、そのことだけで彼を信用してしまいそうになった自分の安直さが、恥ずかしい。まるで、好きになりそうだった。いや、たぶんもうなりかけている。これが彼のやり方だ。騙されそうだと分かっているのに、騙されて、みたくなる。中毒性のあるスリル。はやくこの部屋を去って、一度冷静になってから考えようと俺は思った。抱かれた快感の余韻が、頭を酒浸りにする前に、早く帰ろうって。

 

 結局、気の利いた文句は一つも思い浮かばなくて、栞の短い幅に見合った『帰ります』程度の単語しか書けなかった。書付の最後には、ちゃんとサインをした。どんなに酔っていても、彼は俺の名前を憶えているだろうという予感だけはあった。情事の最中、名は一度も呼ばれなかったけれど、彼は瞳を逸らさなかったから。