お食事

 

 

(1)


 どうでもいい話だが、ノウが最後に固形物を口に入れてから、そろそろ一週間ほどが経つ。
 正確には、経つと思う。特にカウントしてない。自分の食料を日数ごとに事細かに記憶する趣味を、ノウは持っていないので。

 

 普段はハチミツや飴や卵のようなもので原動力を取っているのだが、そろそろ一般的な食事を食べなければ、体のあちこちが俊敏に動かなくなる。
 血生臭いカタールを振り払いながら、「面倒くさい」とノウは思った。
 殺人より面倒くさい。
 時刻は深夜だった。
 こんな時間に食堂は開いてないだろう。夜が開けるまで待たなくては。
 ちらり、と、たった今息絶えた体を見下ろしながら、何とかここらへんの物を適当に食べられないだろうか、とも考えたが、生だと食べづらいし、自分の手で切り分けるのがより一層面倒だ。肉だけというのも栄養バランスが悪そうである。

 


 いつからだったか、味覚というものが消え、ノウはあまり食事を取らなくなった。
 まったく何も感じないわけではないが、以前と比べ、甘い辛いの差がほとんどないように感じるし、濃淡もよく解からない。
 何かを食べると口の中がべたつくのが不快なばかりだ。
 しかし、やはり食べなければ不思議と体が動かない。少量で栄養価の高いものを取るようになってから数年。利点は持ち運びが聞いて、いつでも食べられること。大体、仮眠前か、出掛ける直前に食べる。
 毎日、一度は何かを食べなければいけないなんて。
 燃費の悪い体に、嫌気がさす。

 

 この死体から精気のようなものを吸収できればいいのに。
 人を殺せば、殺された奴の無駄なエネルギーを、殺した奴に移すみたいなシステムがあればいい。


 それなら、殺しさえすれば、食べなくて良くなる。
 無駄な想像をしながら、ノウはカタールの血肉を、死体から剥ぎ取った上着でぬぐう。
 長居する理由もない。ノウは歩み始めた。
 去り際に、殺した男が刺される直前に何か言ったな、と思い出したが、その言葉が何だったのかまでは、思い出せなかった。

 

 

 

(2)

 

 日が高くなってから、しばらく、ノウは町中に佇んでいた。背中にしたレンガの冷たさが、夏の終わりを告げている。
 無性に気だるい。
 さすがにズボンには仕込み刀を入れて来たが、上はもう黒のシャツ一枚で済ませてしまった。手首に薄い刃が一枚あるだけだ。
 今襲われたら、相手によっては逃げなければならないかも知れない。だがアサシン組織の連中は無能なので、相手にとってこんな好都合な時期はたいてい外してやってくるのだ。

 

 どこかの宿で食事を取ろうと、重心を右足に戻したところで、急に声をかけられた。
「ノウ」
 左前方。
 オルエだ。
 何故、こんなところにオルエが。
 ノウは思わず顔をあげる。しかし組んでいた腕をほどく気にはなれない。
「やっぱり、ノウだ」
 近づいて来たオルエは微笑んでいた。ふざけた薄桃色のTシャツ。サスペンダーの紐が両肩とも落ちている。
 赤い髪がとても綺麗だった。
「なーにしてんの?」
 彼の両手はポケットに入れられたまま。ノウの両腕は組まれたまま。
 空は晴れていた。
 メイン通りでないとはいえ、プロンテラである。人の量はそこそこにあった。
 風が心地いい。それに揺られるオルエの髪もいい。
 腹の奥底にうずく断続的な吐き気さえ無ければもっと良いのに。この際、慢性的な頭痛には目をつぶろう。
「そっちこそ、なにしてんの」
 ノウは重い口を開いた。
 こんな場面で、やたらめったらに殺気を振り回さないのが、オルエの美しいところだ。
 よほど力に余裕があるか、おつむがぶっとんでいるかしないと、こんな芸当は出来ないだろう。つまり、オルエは強い。
「俺は今からごはんですよー?」
「…ごはん」
「そう、昼飯」
 いや、朝飯かな? と、オルエは笑った。
 内太ももにある短剣が目につくが、もうそれすら、どうだってよかった。
 食事。
 このまま、オルエと取るのも、やぶさかでないと、何故か思えた。
「僕も行こうかな」
「んん?」
 オルエは目をぱちくりさせる。
 しかし強いオルエは、同席を許すだろう。
 頭が痛い。瞼が硬い。何かが胃と脳を圧迫し続けている。

 

 

 

(3)

 

 銀髪のアサシンクロスの男が居て、彼はふいを付けそうなほど素朴な表情でオルエを後ろからぼんやり見ていた。しかしその立ち振る舞いに、隙のようなものはない。
 ノウとの食事をやはり快く了承したオルエは、振り返り彼に告げた。
「やっぱ先帰っといて」
 見落としそうなぐらい小さく、アサシンクロスの男は頷く。

 

 真っ赤な瞳が、白い肌に一際印象的だった。色の無い表情に光彩ばかりが不自然に後を引く。
 どこか見覚えが。
 ノウの思考に、一瞬だけそんな言葉が過ぎったが、疲労しきった精神では、それ以上の考えが浮かばない。アサシンクロスならば、どこかで見覚えがあっても不思議じゃない。どうでも良いことだ。
「悪いな」と手を立てるオルエを気にする様子も無く、銀髪の男は足音も残さず、その場を去って行った。

 

 

 

(4)

 

「そら豆シチュー」
 メニューを指差しながら、オルエが店員に注文する。
 入ったのはすぐ傍の宿屋の食堂だった。オルエに続いて、ノウはサラダ全種とチキンソテーとドリアを頼む。
 食堂は冒険者たちで賑わっていた。
 ちらりと全体を見渡すが、特に変わった者はいない。窓の近い壁側の席を選んだので、場所はここで十分だろう。
 そうこうしている内にオルエが立ち上がり、どこかに行ってしまった。しかし、すぐにパンが入ったバスケットを持って帰ってくる。
「パンはセルフなんだよ」
 そう手渡されたフランスパンをノウは受け取った。
 その様子を見ながら、席についたオルエが笑う。
 パンは硬かった。調度良いとノウは思った。噛みづらいが、口の中にいつまでも残る柔らかいパンより余程いい。

 

 オルエのシチューと、ノウのサラダは時間もかからずに出てきた。
 サラダの一つにホウレンソウとベーコンのバター炒めが入っていて、これはサラダじゃないだろうとノウは思う。ベタベタじゃないか。
 初めから食べるのには気が重く、それを避けて口ざわりの良いものばかりを食べていたら、それに気付いたオルエがスプーンでその皿を指しながら不思議そうに言った。
「食べないの、それ」
「んー…」
「ナニナニ、好き嫌いですかぁ?」
 ニタリと微笑むオルエから、ノウは視線を逸らす。
「…あげる」
 差し出した皿を、オルエは受け取った。
「大きくなれないぞ」
「必要ないよ」
「じゃあ俺は大きくなってスーパーオルエさんになる」
 ぱくぱくと勢いよく頬張りながら、オルエは真顔でそう言った。

 

(こっちが差し出したものをよく平気で食べる…)
 あまりにも躊躇いなくオルエが食べるので、ノウはぼうっとそれを見る。
 バターはオルエの唇を濡らした。
 萎れた青菜。
 オルエの口に放り込まれていくものが、やがてオルエの血肉になることが、ノウには感覚的に理解できなかった。
 減っていく食物。
 本当に、栄養に?
 この世から消えて無くなるのではないのか。
 オルエの口唇が艶をおびてゆく。取り込まれるのか。

 

 おいしいのだろうか。
 ふいに、そんなことを思った。この類いの興味を持ったのは久しぶりだった。なんだか懐かしい気持ちになる。
 ベーコンの塩気が、記憶の中で再生されて、過去の思い出が。
 知らず知らずの内に、ノウの親指は、オルエの唇に伸びた。
 オルエは一瞬、食べる手を止める。
(警戒するか)
 オルエは動かない。じっとこちらを見ている。ノウは手を止められない。
 指先が下唇にふれ、ぬるりとした。
 その光沢を確かめるようになぞり、ノウは指を引き戻す。
 濡れた指を口に含んで見たが、あの頃のような塩の味は、感じられなかった。
 やはり駄目だ。
 ノウが顔を上げると、オルエの警戒はもう既に解かれていた。彼は笑いながら首をかしげる
「ん?」
 親指についた唾液を吸い取りながら、ノウはオルエがたいらげてしまった皿を見た。
 直接、彼の舌を舐めれば良かったと、そんなことを考えた。
 けれどそれをしたら、さっきから店の端に座って遠慮のかけらも無い視線を寄越してくるオルエの恋人が五月蝿いだろう。
 窓の外はまだ昼下がりだった。
 両足に忍ばせてある二十本のナイフが急にずしりと重みを増す。
 今ここで投げきってしまいたいくらいに。
(そんなことをしても、つまんない)
 オルエは微笑む。ホウレンソウとベーコンを食い、オルエは成長するらしい。
自分があれを食べたところで、何も話は進まないことをノウは知っていた。現状維持が精一杯の食事。それすら厭わしく思う。
 チキンとドリア。
 食べれば帰ろう。
 どうせ美味くも、不味くもない。

 

 

2008.09.04