知り、否定するもの

 

 何もない夜だった。
 風もなく、音もなく、月だけが明るかった。
 調度、教会の仕事終わりが遅れたこともあって、アレイスが何か食べて行こうと言い出した。
 二つ返事でナツキは了承する。
 時々、アレイスはこんな風にナツキに夕食を奢った。ペースはある程度一定。部下に御馳走するのも彼の義務のうちの一つなのか。それともただの好意という餌か。
 彼が何を思ってナツキを夕飯に誘うのか知らないが、上司の言うことに理由もなく逆らいなどしない。
 その夜も、いつも通り彼について行き、彼の馴染みの店で夕食を食べた。
 たわいもないコミュニケーションを取って、食事を済ませたあと、店を出る。

 

(いつもより、遅い時刻だな)
 ナツキは月を見上げながらそう思った。
 食事にかけた時間はいつもとさほど変わらない。仕事が思ったより遅れていたようだ。
 会計を済ませて後から出てきたアレイスに、ナツキは頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ」
 夜も更けていたせいだろう、空気は冷たかった。
「あれ、もうこんなに更けたのか」
 教会のほうを見上げ、アレイスが呟く。
 時計塔の針は、もう見えなかった。
「随分かかったもんなぁ」
 歩き始めたアレイスの少し後ろをナツキはついていく。
「すいません」
「いやぁ、あれは押し付けられた私が悪い。どうにもかわせなくて。手伝わせてすまなかったね」
「とんでもありません」
 教会通りまで出ると、アレイスとは道が違う。
 そこでいつものように別れるつもりだった。
 人通りの少ない路地に、アサシンの影を見つけるまでは。

 

 すっと、その男は、錯覚かと思わせるほど滑らかな動きで路地裏に入って行った。
 ナツキの視界のすみにも彼は映ったが、ただの通りすがりだと気にも留めなかった。
 けれど、アレイスが、信じられないものを見る目つきで、彼を見ていた。
「ちょっと、すまない」
 一言断ってから、アレイスが足早に彼を追う。
 知り合いにしては、ただごとでない雰囲気だったのを、ナツキは察した。
 アサシンの知り合いならば、公言できない仲なのかもしれないが、何故か、焦っているようなアレイスの様子に、ナツキは不安を覚えた。
「おい!」
 アレイスが男を呼び止める。
 その声の大きさに、ナツキはギクリとなった。どうしてそんな音量で。
 咄嗟に、アレイスの後を追う。
 絶対耳に入る声で呼び止められたのにもかかわらず、アサシンの男は歩みを止めない。こちらを振り返ろうともしない。男は普通に歩いているようなのに、異様な速度で遠ざかっていく。
 アレイスは駆け出した。
 ナツキは驚き、彼の後について走り出す。
 角を曲がり、アサシンを追う。どうして追いかけているのか解からない。

 

「ラズル!」
 アレイスが必死の形相で叫ぶ。
 彼のそんな声を、ナツキは初めて聞いた。
 夜だというのに彼の声量は限度を知らない。
 目の前のアサシンの男は、やっとこちらを振り返り、立ち止まった。
 気づいたときには、そこはもう大通りから遠く離れた路地裏だった。

(この人、何でこんなところに?)

 叫ぶ上司の背越しに男を見ながら、ナツキはどこか冷静に自分が感じた違和感を探っていた。
 この先は城壁があるばかりで、店も宿も無い。
 男は何の目的があって、こんな時間帯にこんな場所へふらふら歩いて来たというのだろう。
 彼を追うことに気を取られて、考えもしなかった。
 何かがおかしい。
 上司を止めようとナツキが伸ばした腕は、アレイスに振り払われた。
「ラズライド!」
 いっそ悲痛な声だった。
 振り返った男は、きょとんと驚いた顔をしていた。
 こんな勢いで叫ばれたにしては、落ち着きすぎた態度だと悟るべきだった。
 男は思った以上に若い。
 薄茶色の髪の毛に月の光が反射していて、瞳の色までは解からない。
 彼の様子を見て、アレイスは低い声を出す。
「…やはり…お前は、ラズルじゃ、ないんだ、な…?」
 アレイスは何か確信を得たようだった。一瞬で彼の声に激怒の色が混じりだす。
 ふ、と、アサシンは笑った。
 その笑みにナツキの背はぞくりとした。

 

 コイツ、暗殺者だ―――

 

 ナツキは閃き、今度こそ上司の腕を掴んで引き寄せた。
「アレイスさんっ…!」
 けれど、ナツキの力はアレイスに及ばない。
 男の口がゆっくりと開き、男にしては高い声がその口から発せられた。
「人違いですよ」
 アレイスが、表情を強張らせた。彼は嘘だと判断したらしかった。ナツキも恐らくはアレイスの判断通りだろうと思ったが、それよりもまずこの場から立ち去ることが先決だと本能的に感じていた。そして彼の言葉にはそれが出来る可能性が含まれているのではないか。ナツキは焦り、アレイスの腕を引いた。
 しかし男は次の瞬間、にんまりと微笑んだ。
「…と言いたいところだけど、…何か知ってるようだねえ?」

 

(――しまった…ッ)

 


「あれぇ? なっちゅん」
 急に飛び抜けて明るい声が届いて、ナツキはハっと振り返った。
 ナツキの背後には赤毛のハイプリースト、オルエが立っていた。
 まさか彼の姿を今この場で見ることになるとは思わなくて、ナツキは一瞬唖然とする。
 そんなナツキをよそに、この場に相応しくない日常の空気をまとわせて、オルエは手をあげてこちらに挨拶をしていた。
 いつも通り、何か悪戯でも企んでいそうな、楽しげな笑顔で。

 

 マズイ、

 

 ナツキは咄嗟に彼を制止する。
「オルエさん…! すみません、今ちょっと仕事の話で…!」
 立て込んでて、と、ナツキはそう言葉を続けながら、自分が一体何を言っているのか混乱していた。
 この場でどうするのが最善策なのか、判断がつかない。
 けれど無関係のオルエを巻き込むわけにはいかないことだけは確かだ。
 なのにオルエはこちらに向かって歩いてくる。
「すいません、遠慮して貰えますか…!」
 彼の位置からはこの不気味なまでに落ち着いたアサシンの男が見えないのかも知れない。

 

(この拍子に逃げれるか…? いや、危険だ、オルエさんまで危害が…。それよりもこの男は何をするつもりなんだ? アレイスさんは戦闘が出来たろうか? 戦うのか? 危険だ。待て、オルエさんが先だ。彼を近づけるわけには……)

 

 オルエが手を組んで、ひょうひょうと歩いてくるのが見える。

 

(駄目だ、こっちに来るな……!)

 

「帰ってください! オルエさん! 」
 ナツキこれほど強い口調で、オルエに物を要求したことは今までに無かった。
 それだけでも、オルエが何かを察することは容易かったはずなのに、彼はそうしなかった。
 ナツキにはこの時、その理由が解からなかった。そんなものを考える余裕なんてなかった。
 ナツキに歩み寄ってきたはずのオルエはしかし、自分たちではなく、真っ直ぐ男を見ていた。

 

(え……?)

 

 冷え切った空気が引き裂かれ、オルエの笑みだけが場に浮いて見えた。
 取り残されたナツキたちは訳も解からず彼らを眺める。
「お前、」
 オルエの声は低くない。
 けれど、彼の声は澄んでよく通り、言いようの無い威圧感がある。
「『ノウ』だろ」
 名を発音した刹那、オルエが腰の後ろから何かを抜いた。ちかり。ナツキがそれを何か確認するよりも早く、オルエがそれをアサシンに投げつけた。
 アサシンがそれを舞う様にかわす。
「No (ちがうよ)」
 石壁にオルエの投げつけたそれが激しい音を立ててぶつかった。地面に落ちたのは黒いナイフだった。
 一体なにを。ナツキが思考を許された時間はそれぐらいだ。オルエのほうを振り返る暇もなく、彼は2本目、3本目のナイフを立て続けに投げた。
 バっと布が広げられる音が鳴る。
 視野が暗くて、ナツキには彼らの動作の全てが読み取れない。アレイスの無事を確認する。彼は目の前の彼らの動きを眺め、呆然としていた。ナツキは咄嗟に上司の肩を押して路地の端に転がり込む。
 布が引き裂かれる音が後方で響いた。ナツキが振り返った時には、布など捨てられた後だった。
 暗殺者の男の手には、何本かの黒いナイフが握られていた。男はそれを興味深そうに眺めていた。ナツキも、あんなナイフは見たことがない。あれが本当にナイフなのかすら、判断できなかったが、先端に付いているのが刃物であることに間違いはない。
 ほう、と男が声をもらす。
「変わったの使ってるね」
「もっとやろうか?」
 オルエが親しげな様子で声をかけた。けれど彼は言いながら、物凄い勢いでそのナイフを投げつけた。動きに表情がそぐわない。ちぐはぐな動きだとナツキは思った。何かがスライドして置き換わっているようにピントが合わない。
 アサシンの男はそれを当然のようにかわして、一歩斜め後ろに引く。ガシャっとナイフが地面に落ちる音が遠くのほうでした。
「遠慮するなよ」
 オルエはハイプリーストの法衣を僅かにめくり、太腿の裏から黒いナイフを引き抜く。いくつあるのか、視野が悪くてナツキには解からない。一体どうして彼の太腿の裏にあんなものが大量に隠されているのか、見当も付かない。
 何度も脱がせた彼の服だ。ナツキは一度も、気づかなかった。
 彼は何者だ? いや、
 本当に『アレ』は、『オルエ』か?

 

 ジャっと刀身が引き抜かれ刃物が擦れる音がする。ナツキの肩はその音に引き攣った。恐る恐る男に視線を移すと、彼の両腕には月光を浴びたカタールが異様に光沢を持った刃を輝かせて備わっていた。
 彼の足元で、砂利が悲鳴を上げる。捻り擦りきられるように、じりじりと。滑らかな動作で、ゆっくりと、男がそのカタールを構えた。
 見たことも無い構えだ。
 前傾すぎる姿勢に見えた。
 駄目だ、強い。ナツキは悟った。勘ではない、本能だ。

 

 男が踏み込む一瞬は、飛ぶような速さだった。

 

 ガンッ!

 

 金属の弾け飛ぶ音がする。オルエがその一撃を防いだ刃は、先ほどの黒いナイフよりも大振りの短剣だった。
 反動を利用するように後ろへ跳ねた赤髪が、低空から男の懐にまっすぐ伸びる。
 再び鉄と鉄がぶつかる凄まじい音が鳴り響いた。
 男は交差させたカタールを振り払ってオルエを突き飛ばす。
 力負けしたオルエに、次の一手を繰り出すため、一歩踏み込んだ彼を見て、オルエはナイフを投げつけた。その口元には笑みが浮かんでいた。一瞬のことだ。
 攻撃のために付けた勢いと、真逆の方向から放たれたナイフ。
 避けられない。
 ナツキは思った。
 けれどその予想に反して、男は大きく後ろに飛び上がった。
 二本の足が宙を舞う。
 その影を追うように、ナイフは地面に突き刺さる。
 着地した男は笑っていた。

 

「僕は否定する。僕は知っている」

 

 一際、引き付ける声で、彼は言った。
 月の光が作る影で、彼の顔がうまく見えない。
 口元だけが、その光を受けて、
 この場に相応しくない表情を模し、ナツキを引き攣らせる。

 

「僕はノウだ」

 

 歪なまでに、弓なりに曲がる唇。おぞましいほど優しく、彼は微笑み、見る者全ての心臓を鷲掴みにして、冷たく地面に叩きつけた。
 それが、ノウだった。

 

 

2008.--.--