アップルパイとクリスマスリング

 

 

 

 

「お前、腹減ってるか」

 前を歩いていたイアーゼが、突然振り返ってそう聞いた。石畳を見ながら歩いていたジェナードは、顔を上げて「え」と一度立ち止まり彼女を見る。プロンテラ王立図書館の帰り道、時刻は昼を過ぎてから少し経つぐらいの頃合いだった。

 宿を発つ前に食事を取っていたせいで、ほとんど空腹らしいものは感じない。しかし、それはイアーゼにしたところで同じだろうとジェナードは思った。

 休日の昼、食堂にいたメンバーで何となく食卓を囲うことになったとき、その輪の中にイアーゼもいたからだ。そして食事中の会話で、昼食後に彼女が図書館に行くから一緒に来るかと誘われて、ジェナードは自分の本も返すために同行することにしたのだった。あの時、イアーゼはシチューの包み焼きをしっかり食べていたことをジェナードは覚えている。クロウが「あーあれにしときゃあよかったな」と言ったので。残念ながら、ジェナードの胃の限界量では、そのメニューを追加注文してやることができなかった。

 

「足りなかったですか?」

 ジェナードが尋ねてみると、イアーゼはいつもの冷静な表情のまま「いや」と言葉を濁した。けれどその視線は何かを捉えているようで、ジェナードはその先を追って振り返った。そこにあったのは、オープンテラスのカフェだった。

 この時間帯ではまだまだ昼食客が多いらしく、店外のテーブルもほとんど埋まっているらしい。人気の店なのだろうか、とジェナードは看板を見たが、もちろん店名に見覚えはなかった。

 

「どれぐらいなら入る?」

「え、俺ですか。そんなには……」

「じゃあ、取引ならどうだ」

「え?」

 ジェナードがイアーゼの言葉の意味を分かりかねていると、彼女は眉を寄せ、訝しげな顔をして尋ねてくる。

「……そうか、お前とは食べたことないのか」

「何を、ですか?」

 アップルパイ、とイアーゼはぼそりと呟いた。

「ここのはホールだ。一人じゃ手に負えん。まあ、でも今の私たちじゃ、二人でも怪しいし、食べきったら何かお前の方の頼みも聞いてやる。そういう取引ならどうだ」

 イアーゼの目は至って平温だった。

 そういえば、宿屋の食堂でこの人がパイを数人と食べているのを見たことがある、とジェナードはいつかの風景を思い出す。シェインか誰かの付き合いでコーヒーのついでに食べているのだとばかり思っていたが、あれはイアーゼのほうの趣味だったのか。

 

「そんなに、デカいですか、それは」

 ジェナードが聞くと、イアーゼがマントの中から両腕を出して手で丸を作って見せる。小ぶりのヒマワリぐらいはある、ワンホールのケーキサイズだった。

「……デカいですね」

「デカい」

「お土産にしませんか」

「いや、ここでしか食べられない。この時期だけやってる。今、異常に席がすいてるし、まだショーケースに焼く前のが残ってる」

 ジェナードはテラス席の方をもう一度見てみるが、結構な人だ。

「これ、すいてるんですね」

「すいてる」

 大きく開かれたエントラスからは、確かに店内のショーケースが見えた。

「お好きなんですか?」

「アップルパイがか?」

 ジェナードの質問に、イアーゼが尋ね返した。彼女はジェナードよりも背丈が低い。黒い髪から覗く目の力が強いから、見上げる眼光は鋭いように思える。なのに、そんな強い目のまま、小首を傾げるみたいな仕草をよくするから、ちぐはぐな印象が不思議と気を緩ませる。

 こくりとジェナードは頷くと、イアーゼは至極まっとうな様子で「そうだ」と肯定した。

 こんなはっきりとした好物の宣言を、ジェナードは初めて見る。

「食べたいのは山々なんですが……、そのサイズのハーフは、俺には厳しいです」

「……そうか」

 イアーゼは一言そう呟いて、また前を向き直って歩き始めてしまう。

 申し訳ないことをしただろうか、とジェナードはその後姿と店を見比べる。

 宿屋に帰ってから、何人かを誘ってここに戻ってくることはできないだろうか――と考えを巡らせてみるが、これほど賑わっている店内を『異常にすいている』というぐらいだ。再び訪れたところでもっと混んでいるだろうし、もしかしたらすぐに売り切れてしまうものなのかもしれない。昼下がりの今、まだ在庫が残っているほうが、稀なケースというのも十分に考えられる。だからこそイアーゼは突然振り返って尋ねてきたのだろう。

 ジェナードは他にも『なんとかテイクアウトできないだろうか?』とか、『ピースでの注文はできないのだろうか?』といった考えられる限りの対処法を思い浮かべたが、今ここでジェナードが考えつくような方法はすでにイアーゼも考えているはずで、優秀な参謀も兼ねたギルドマスターである彼女が『打開策無し』と判断するのなら、大人しくそれに従うのが妥当なんだろう。

 

 視線を前に戻して、ジェナードがイアーゼの後をついて行こうと歩みを進めると、今度は目の前の背中がまたピタリと止まった。彼女の視線は何かを見つけたようにテラスの端の方を見ていたが、やがてジェナードのほうを振り返り、

「クォーターなら、どうだ」

と、冷静に尋ねてきたのだった。

 

 

 

 店内に入ると、受付のウェイターがジェナードたちをテラスへと案内した。中は植物の鉢があちこちに置かれていて少し薄暗く、込み合っているのに騒がしくない雰囲気だった。窯に火が入っているらしく、キッチンのほうから熱気が漂っている。外のテーブルは室内と打って変わって明るく、風通りがいい。二本ある背の高い広葉樹がテラスの半分に浅い木陰を落としていた。

 イアーゼは店員に目配せで了承を得て、店の一番東端の席へとすいすい歩いて行った。その歩みに遅れないよう、ジェナードはマントを内側に引き込みつつ彼女の後を追う。

「よう」

 イアーゼが立ち止まったのは既に客のいるテーブルだった。

 冒険者の男二人で、プリーストとアサシン。ジェナードよりは歳も上のこなれた風体の男たちだった。

「おお、久しぶり」

 アサシンのほうがイアーゼに気づくなり、驚いたように顔を上げた。向かいの席のプリーストは彼より落ち着いた様子で、「お疲れ」とイアーゼに挨拶する。プリーストの男の髪色は金髪だったが、クロウとは違い髪がもう少し長く、前髪のせいで顔の半分ほどが隠れている。男はその隠れていない方の赤い目で、ちらっとジェナードの方を見てきたが、視線が合うと、口元だけで緩い笑みのようなものを浮かべた。

 ジェナードは咄嗟に、会釈でそれに返す。

 イアーゼがその二人のテーブルに腰を下ろした。それからジェナードのほうを見上げて、お前も座れという目をする。

 おずおず椅子を引き、ジェナードもそこに腰を下ろす。

「……お知り合いですか」

「旧友だ。スルガとツイード

 イアーゼはそう彼らを紹介したが、アサシンとプリーストのどちらがスルガでどちらがツイードなのか分からないような雑さのそれだった。同じような調子で、イアーゼはジェナードのことも親指でさし、

「ジェナード。ギルドのだ」

と、彼らに言った。

「あれ、会ったことあったっけ?」

 水色の髪のアサシンのほうが、こちらに尋ねてくる。見覚えはないように記憶しているが、ジェナードの言葉は一度「え」と詰まる。隣からイアーゼが答えるほうが早かった。

「ないな。わりと最近入った。お前らがこないだの宴会に顔出さなかったからだろ」

 宴会?とジェナードが小声でイアーゼに尋ねれば、彼女は「別ギルドと合同のがあったろ。ヴィアと」と同盟ギルドの名を上げた。

「え、そんなんあったっけ」とアサシンが言い、「あった」とプリーストが答えた。

「覚えてないんだけど」

「言ってないからな」

「え? なんで」

「まあ、俺が帰って寝たかったからかな」

「また。そういうの、巻き込むよなー」

 二人は彼らのペースで会話を続ける。ここに突然押しかけて相席をしたイアーゼとジェナードのことには、あまり気にとめていない様子だ。ジェナードには、こうやって道で会うだけで何の約束もなく合流するような仲の友人がいないから、この状況がこれで良いのか悪いのかが分からなくて、少し気持ちが落ち着かずそわそわとしてしまう。

 対照的に落ち着き払ったイアーゼは、平然とウェイターを呼び止め、ご所望のアップルパイをひとつ注文した。

「俺ら、飯食い終わっちゃったよ?」

 アサシンがイアーゼにそう言った。テーブルの上には、からになった木製のピザピールが二枚と、車輪型のカッターがあったから、おそらくこの店のメインメニューを食べたのだろう。それらも、注文を受けたウェイターがついでに下げてしまって残ったのはワイングラス二つだけだ。

「ならデザートでも食ってけ。私の奢りだ」

「え、なんで? いいの? 食うけど」

 けらけらと気さくにアサシンは笑う。ジェナードは彼とイアーゼの会話が無事に進行しているところを確かめつつ、ちらっともう一人のプリーストの方に目をやった。するとまた丁度、彼と目が合ってしまう。ふっとプリーストがまた、表情を緩めた。目や口元が明確に笑っているわけでもないのに、こちらを安堵させるような顔をする男だ。

 

 聞けば彼らは、イアーゼの二次職になりたての時によく狩りに行った友人であるらしかった。イアーゼやビジャックのその時期の友人たちは今でもまだギルドぐるみの交流があって、その中でも特に友人の顔触れが集まっているギルドが先述の同盟ギルド、ヴィアであるらしい。

 上司の友人である手前、ジェナードは大人しく彼らの会話が流れていくのを眺めていたが、二人はさすがイアーゼの友人とでもいうのか、腰の据わったコミュニケーションをする人たちのようだ。時々こちらにふられる会話にも、そこまで動揺せず答えることができた。

 

 アップルパイが運ばれてきた時、ジェナードが、どうしてイアーゼが男三人を巻き込んでこれを注文したのかが理解できるようになった。

 まず、パイが本当に大きい。一番小さいサイズのピザみたいな大きさで、さらにそれが縦に分厚い。ショートケーキとまでは言わないが、タルトよりは明らかに高い厚みがある。そして、切り分けるために置かれたのが、さきほど見た覚えのあるピザ用の車輪型カッターと、皿だった。

 テーブル中央に鎮座したアップルパイを、イアーゼが十字に切り分けると、中からほぼ液体のようなソースが、どろっと流れ出てきて、「これは……」とジェナードは思った。これでは確かに、ピースで持ち帰ることができないだろう。

 

「この店、こんなのあんだね」

 取り分けた皿を受け取って、アサシンの彼が言った。

 有名だろ、とプリーストがそれに答える。

「だって、ピザ屋にケーキって」

「ここはピザ屋じゃねぇよ」

「これは、パイだ」

 イアーゼがそれに付け加えて、左右両方から訂正をくらったアサシンは「え…」と二人の顔を眺めながら、一口目のアップルパイをとりあえず頬張った。

「だって…そんなの普段から見ないし…」

「この店がピザ屋に見える奴には、パイもタルトもビスケットも全部ケーキだろうな」

 大きくため息をついたイアーゼが呆れるようにそう言って、プリーストが「ピザ屋って認識だったんなら、選択がおかしい」と呟く。

「なあ、オリーブアンチョビ以外にもピザの種類あるって、知ってた?」

 アサシンは眉を寄せて困惑しながらも彼らへと不満をこぼした。

「ええ、なに…? 俺、今そんなに悪いこと言いました? そこまで責められる?」

 

 彼らの会話に割って入れるわけもないジェナードも、手持無沙汰になって、切り分けられたアップルパイを口に入れる。

 出来立てなだけあって、それは驚くほど美味しかった。甘みも強いが、それ以上に爽やかな酸味が強い。硬めに焼きあがったパリパリのパイ生地に、ほとんど液体のようなリンゴの蜜が良く合った。中から出て来た角切りりんごも、焼きりんごのようなほっくりとした触感で、ブランデーが効いている。あまり、食べたことのない種類のアップルパイだった。

 皿から顔を上げると、イアーゼがこちらを眺めている。

「美味いか」

 ジェナードは慌てて頷いた。

「あ、はい。美味いです」

 彼女はどこか満足そうに口角を上げて、自らもフォークを口にした。

「話の分かる奴には、食べさせがいがある」

 それは明らかにアサシンの彼に当てられて出た言葉だったが、本人は嫌味にも平気な顔でパイを食べながら、ジェナードと目が合うと笑っていた。

 ジェナードには、かける言葉がみつけられない。

 

 

 プレートの上のデザートがあらかた片付け終わり、コーヒーを飲みながら落ち着き始めた頃、イアーゼがふいにジェナードのほうを見て言った。

「今度は、お前の番だな」

「え」

 意味が分からずジェナードはギルドマスターの顔を見返す。

 突然はじまった話題に、向かいの二人も会話を止めてジェナードを見ていた。

「何が…」

「付き合ってもらった礼だ。何が欲しい」

 イアーゼの表情は冗談を言っているような顔つきではない。

 初めにこの店へと誘われた時、『取引だ』と言っていた彼女の姿を、ジェナードは思い出す。あれは、本気だったのか。

 

「特に……、欲しいものが今、思い浮かばないです」

「……」

 こちらをじっと見るイアーゼの眼力は強い。その静かな沈黙に、隣でプリーストの彼が浅く笑った。

「無欲だなぁ」

 彼はソーサーにカップを置いて、助け船でも出すかのように言う。

「このシーズンなんだから、なんでもふっかけちゃえよ」

 そうだよな、とアサシンが頷く。

 その言葉で、ジェナードは年末の浮足立って落ち着かないイベントの空気を思い出した。クリスマスのことだ。近頃、そのことでよく悩んでは、頭を痛めていることがある。

「欲しいものというか、欲しがってるものが……知りたいぐらいで…」

 

 首都に出てきて間もないジェナードは、地元のゲフェンとプロンテラのクリスマスに対するギャップに戸惑っていた。

 一年の納めとして家族で厳かに過ごす故郷のクリスマスと違って、こちらのクリスマスは街中がお祭り騒ぎのカーニバルだ。プレゼント交換の文化も盛んらしく、色とりどりの包装紙やラッピングリボンを売る露店が、首都のあちこちに立ち並んでいる。

 ジェナードは恋人とまともに過ごす初めてのクリスマスとして、彼に気の利いたものを用意したいのだが、その案に全く心当たりがない。

 最近の悩みの種はもっぱらそのことで、実は数か月前からときどき思い出してはどうしたものかと悩んでいるうちに、年の瀬が来てしまっていた。

 

「自分のより……。何を渡したらいいのか、とか、アドバイスが……、欲しいです」

 詳細を説明したわけでもないのに、その言葉ですべてを悟ったらしいイアーゼが、「あー」と考え事をしている声を出して、口元に手をやった。

「分からんな、私にも。なあ、」

 彼女は簡潔に答えを出したのち、向かいの彼らに突然話を振る。

「こいつ、うちのクロウと付き合ってる。クリスマスプレゼントに何か見繕ってやってくれ」

「えっ?」

 声を出したのはジェナードだ。驚いてイアーゼと彼らを見比べたが、自分以外は驚いた様子もなく会話は普通に進行しているようだった。

「クロウかぁ~、わかんないなぁ」

「はは。クロウ以外だったら分かるみたいな口ぶりやめろよ」

「ですよねー」

 理解が付いて行かないままジェナードがイアーゼを見つめていると、彼女は「ああ」と納得したようで、向こうを顎でくいと指しながら言った。

「こいつら、付き合ってる」

「えっ?」

 ジェナードの口からはまた似た声が出たが、アサシンがうんうんと頷いていて、当たり前のようにそれを肯定した。

「そーなんだよなー。付き合って長いんだけど、クリスマスにしっぽり過ごすタイプじゃないんだよなー、長いから…」

「初めは頑張ってしてたじゃないか、デート」

 プリーストが横から言えば、「だよな」とアサシンが受けて答える。

「初めはね…。プレゼントとかもやった気がするけど、どうしたっけ、忘れたなぁ」

「嘘だろ。俺は忘れられない」

 苦く笑うアサシンの隣で、腕を組んでいたプリーストが何か思いついたように視線を上げた。それから彼は、楽しそうに微笑してジェナードに提案した。

 

「そうだよ。この時期だから、リングがいい」

 ジェナードは彼の方へ視線を上げる。

「リング…」

「うん。クリスマスリング。名前いれられるだろ? 彫ってもらって、渡すのはどう」

「……なるほど」

 

 リング、と考えて、ジェナードはそれを用意してクロウに渡すことに、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。

 そういう浮足立った気持ちに、水を差すように、突然、「あ!!」とアサシンが叫んだ。

 

「それじゃん!!」

 彼の顔は真っ赤で、目は見開かれている。

「あ~~! なんで覚えてんの!?」

「なんで忘れんの。スルガじゃないんだよ、俺は」

「忘れてよ!」

「忘れようにも、現に持ってるし」

 プリーストが法衣の内側に手をやると、アサシンが「嘘!? なんで!?」と目をくるくるさせながら体を前に乗り出した。取り出されてテーブルに置かれたのは、ロザリオと黒い布袋で、プリーストは小袋の中から金色の指輪を取り出した。

 

「ほら、こういうの」

「うわああ!」

 

 指輪をプリーストから渡されて、ジェナードは両手でそれを受け取った。叫ぶアサシンを、イアーゼが「うるさい」と一言で黙らせる。

 

 クリスマスのシーズンにだけ市場に出回るそのリングは、シルバーとゴールドの二種類があったはずだとジェナードは記憶している。その内のゴールドは、こんな色味らしい、と手の中のそれを眺めた。

 シンプルな数ミリ幅のリングで、内側に刻印がある。

ツイード…」

 ジェナードがその文字を読み上げると、金髪のプリーストが、にこっと微笑んだ。

「俺の名前」

「そう、ですか」

「でも、自分の名前を彫ったほうがいいな、相手に送るなら」

 ああ、そういう、とジェナードはこの小さな騒ぎの理由を悟る。

 送り主の名を刻んで相手に渡すものなのだろう、クリスマスリングは。そしてスルガが送ったツイードのリングには、ツイードの名が彫られている。

「馬鹿だな」

 イアーゼが、白い目でスルガに言った。

「……可愛い間違いじゃん」

 苦く赤面した顔で、負け惜しみのように視線をそらすスルガの隣で、笑みを抑えきれないまま、ツイードがコーヒーに口をつけた。

「そう、可愛い間違いだよな」

 ツイードが片手を差し出してきたので、ジェナードはその手にリングを乗せて彼に返した。

「だから、こういう思い出もあるよ、って意味」

 

 その顔から、ジェナードは、なんとなく長い年月が経って身体に染みついた愛情の匂いのようなものを感じた。

 そして、なるほど、そういうものがいい、と心底思えた。自分も、クロウに贈るなら、そういう物を贈りたい。

 

「いいですね……、いい思い出だと思います」

 

 ジェナードが言うと、ツイードは満足げに笑い、なぜかスルガは照れた。

 すぐにイアーゼが「なら今から材料集めだな」と席を立つ。

 

「お前らも手伝え」

 スルガが、彼女につられて立ち上がりながら首を傾げる。

「え? 俺ら? いいけど、なんで?」

「くだらん惚気を聞かせた謝礼ぐらい払え」

 ツイードも席を立ちあがって、彼らの歩みに続いた。

「聞かせろってせがんだの、そっちだろ」

 気づけば、いつのまにか会計はすべて済ませてしまっていたらしい。テーブルのどこにも、勘定書がない。

「っ」

 話の早い展開についていけず、ジェナードは慌てて三人を追いかけて立ち上がる。

 材料というのは、つまり自分のリングの、ということなんだろうか。たぶんそうだけれど、分からない。

 けれど、断るつもりもない。

 クロウにあのリングが渡せるのならば、改めてこちらから彼らに頭を下げて頼みたいぐらいのお願いだと、ジェナードは思う。

 

 気づけば店内のテーブルはどこもかしこも満席になっていた。
 ウェイターが、こちらの通る道を開けるために、両手の皿を頭上高くに持ち上げるから、ジェナードはその下をくぐるように足早に出口に向かった。

 入口には待ち客が沢山いて、その列が外の壁にまで続いている。ツタに彩られた外壁にそって長く並んだ人々は、おそらくこれから食べるピザやアップルパイの話に花を咲かせているのだろう。

 その反対方向に歩いていく彼らの後を、ジェナードは小走りに追っていく。

 

 昼下がりのプロンテラの街並みだ。

 

 

 2020.01.01

微力(9)

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5-5

 

「俺……今、なんで謝られてます……?」

 スルガは、困惑したまま半笑いで首を傾げていた。

 

「え。さあ、なんででしょうね」

 結論が出たツイードは、自分の中の折り合いがついたものだから、頭の中の荷物が全部きれいに片付いたせいで、細かいことはどうでもよくなった。不安がるスルガを、また可愛いなと思える心のゆとりまで生まれる。

 煙草が吸いたかったけれど、あいにく手元にそれはなく、仕方なしにビール瓶にまた口を付けた。

 

「これって、初めのゴメンナサイの意味じゃないですよね?」

「初めの?」

「ほら、俺が告白したら初めにツードさんが言ってた、OKじゃないほうのゴメンナサイですよ。違いますよね?」

「そうですね」

「大好き、って意味ですよね」

「え、そうかな」

「好きって、今言いましたよ、ツードさん」

「言いましたね、俺。俺って、スルガさん好きだったんだなあ」

 

 スルガはツイードの腕を持ったまま、今の状況の意味がまったく分からないという顔をしている。

 

「俺……てっきり、デートだと思って……」

 話し出すスルガに向かって、ツイードがベッドの隣を手でトントンと叩いてやれば、彼は大人しくそこに腰を下ろした。彼の体重分、ベッドのマットが沈み込む。

「そしたら、なんかめっちゃ真面目な話になるから……、ビビりましたよ……」

 すみません、とツイードは謝ったが、初めからこの話だと告げてここに来たら彼はもっと『ビビって』いたんだろうな、と思うと、どうにも可笑しくて表面だけの謝罪になった。

 

「でも、びっくりしたけど、結果的に、嬉しいかも」

 片手で口元を多い、照れ隠しのように視線を壁へ向けたスルガを見て、ツイードは素直に『良かった』と思えた。にやけた彼の口元が、愛らしいとすら感じた。

 

「好きですよ」

 ツイードはそれを眺めていただけのはずが、気づけば自然とその言葉が口をついて出る。

 ん、と小さく、顔を赤くしたスルガがむせた。

「遅れちゃって、申し訳ないですけど。俺、馬鹿だから、時間食いましたね」

「え? ツードさんが? どこが?」

「あー……話すと長いんですけど、まあ」

 

 ツイードはぼんやりと天井を見上げ、そのまま言葉を止めた。濁したというより、正しい言葉が見つからなかった。

 今、おそらく、一番晴れやかな気持ちで素直にスルガが好きなので、些末なことに頭の容量をさく気が起きない。

 スルガが隣で、安心したように大きな息をついた。

「マジで、一生セックスできないのかと思った……」

 本当にな、とツイードはその横顔を見る。実際にしないつもりも無かっただろうが、覚悟だけであれをよく言ったな、と感服する気持ちが強い。

 けれど、その覚悟に報いたい、と思うものの、どうしても報えない、というのもまたツイードの中での事実だった。

 

「あー、でも、そういう問題じゃなくても、できないと思いますよ、俺は」

「え!?」

 スルガは飛び上がるようにベッドから立ち上がる。

「今までの話、なんだったんです!?」

 目を見開いた彼がこちらに迫ってくるので、ツイードは思わず身体をのけぞらせた。

「え……、俺、できないって、ずっと言ってますよね」

「でも、俺のこと好きって!?」

「いや、好きですけど」

 手で制すると、スルガはゆっくりその身を引いた。

「好きに――なっても、ケツは嫌です」

「ブ……ブレない、なあ……」

 

 ツイードが再びベッドをトントンと叩くと、スルガは放心したまま、同じようにすとんと腰を下ろした。

 座る速度が速いわりに、こちらに衝撃が伝わってこないな、と感じる。アサシンはみんなこうなのか、と関係ない疑問をツイードが思い浮かべる中、スルガは頭を抱えたまま、絶望的な声を出した。

 

「……めちゃくちゃ、分かるだけに、俺……なんにも言えないんですけど……」

「めちゃくちゃ分かるんですね」

「分かりますよ、そりゃあ」

 

(そんなに分かられると、困るんだけどなぁ。別の意味で)

 

 ということは、スルガのほうも嫌なんだな、という結論にツイードは達する。厄介だ。打つ手がない。

 ツイードはしばらく唇を親指で押さえつつ思考を巡らせ、『いや、打つ手がないこともないか』と思い直した。

 ゆっくり首を傾けて、スルガの顔を覗き込む。

 

「スルガさん、どうしても挿れたいです?」

「え…っ」

 ぱっとスルガが期待めいた顔をあげるが、その表情に流されないように、ツイードは先に言い含めた。

「いや、期待しないで聞いてください。俺とキス以上のこと、したくないですか」

「……し…」

 目の前の顏が赤くなりながら、何度も瞬きが繰り返される。

「……したい、けど」

 その言葉を聞いて、ツイードは思いのほか心臓の鳴る満足感を得た。その余韻のせいで反応が少し遅れたものの、予定通りの言葉を続ける。

 

「じゃあ、合意ってことで」

「へ?」

「予定とかないですよね、この後」

「……ないです……あっても空けます」

 茫然と呟くわりに、とんでもなくちゃっかりした返答だ。ツイードは思わず口元に笑みを浮かべる。

「じゃあいいですね」

 こくこく、と頷くスルガが、口を開いたままこちらに尋ねた。

「え、でもそれって、結局、どういう意味です…?」

 ツイードは立ち上がって、ビール瓶をテーブルに置く。

「一生できないなんて、嫌だからな、俺は。ようは、どっちもケツ使わなきゃいいんですよ」

 首を鳴らせつつ後ろを振り返ると、スルガがじっとこちらを見ていた。

 

「マジですか」

 理解したスルガが、ぽそりとそう言い、

「マジですね」

 ツイードがそれに答えて頷いた。

「嫌です?」

 

 

 

 

 

5-6

 

 触れた唇は、熱かった。

 位置を確認するためだけに頬に置いたはずの手に、ぐっと力がこもる。

 ツイードが舌先でちろっとスルガの唇を舐めると、すぐにスルガが彼の舌を差し入れてきて、口の中奥深くで溶け合うようになった。

 舌を絡めるキスで、こんなに長く続けていられるやり方があるんだなとツイードは思う。

 犯すようなキスでもなく、せがむようなキスでもない。スルガのキスはいつも柔く、熱く、ぬめるのに、しなやかだ。

 やがて、舌先が少し痺れだしてから、ツイードは唇をゆっくりと離した。

 ハ、と近くで、スルガの息が聞こえた。

 

 間近で見るその火照った目に煽られて、もっと口付けてみたくなる。ただ、咽喉が痛いほどぎゅっとこわばっていて、その力をほぐすためにツイードは一旦、キスの続きをやめた。

 スルガが唇に手の甲をあて、視線を下にそらせて瞬かせる。

 

「あーーーすっげえ緊張するーーーーーッ」

「…なに言ってんですか、今さら」

 

 言いながら、ツイードも自分の息が荒くなっていることに気づく。さっきまで普通だった心臓が、突然存在を主張し始めていた。

 

「やばい、俺、こんな緊張してからすんの、初めてかもしんない…。し、心臓が、ほら」

 スルガは自分の胸に手をあてていて、その脈拍に、手の平ごと振動で揺れているのが見えていた。

「うわぁ」

「全力で走っても、こんなん、なんないですよ」

「ですか…。え、どうします? 水でもかぶってから帰ります?」

「なんで!? 帰んないですよ!?」

「じゃあ、続き、します?」

 言いながらツイードが顔を近づければ、スルガは「あ…」と声を漏らしてから、目を閉じてまた口付けに応じた。

 何度も柔く撫で上げる彼の舌が気持ちいい。深めれば深めるほどに、身体が麻痺していく感覚がする。

 唇を放すたび、離れるのが名残惜しい気持ちだ。

 ツイードは思わず、言葉をこぼす。

「……やば」

「…へ?」

 蕩けた目で、スルガが聞いた。

「……もっと、あっさりめに、するつもりだったのに」

「なにが…?」

 囁くような声でスルガが尋ね、彼の手がツイードの首に触れる。

「けっこう、やばいですね、これ」

「……、ですよね…俺、ツードさんのキス、すごい好きかも」

 これは、スルガのキスだろう、とツイードは思ったが、そんなことはどうでも良くなってきていた。

 耳の奥がキンとするほど、痛い欲情に体が痺れてくる。

 ツイードは、スルガの太腿に触れ、服越しにそこを撫で上げながら、ゆっくりと中心に向かって手を伸ばした。確かめようと思っていたその場所は、既に熱を持って硬くなっていた。

 

(あ、もう勃ちかけ)

「うわっ」

 スルガが身をよじる。

 

「え、え、い、いいんです? それ」

「だめです?」

「だめっていうか、ツードさんが、俺の…! うわ、待って、やばいやばい」

 彼の言葉を無視して、その熱を何度か擦り撫でた。それは、どんどん硬くなって、形がはっきり触って取れるように膨らんできた。

 ここまでになると、衣服の圧迫が辛そうだ。

 

「脱ぎましょーか…痛いでしょ」

「いやッ、自分でやります! 俺、」

「なんで? 俺、やりたいですけど」

「~~~ッ!?」

 

 騒ぐスルガをよそにツイードはベルトに手を掛けた。自分のに比べれば随分とシンプルな造りのバックルで、スルガのベルトは簡単に外れた。前を寛げてやれば、勃ちあがったそれが布を押しのけて、ほとんど弾けるように飛び出してくる。

「ひッ」

「…あー…」

 思わずツイードは呟いて、腹に付かんばかりのそれをしばらく眺めてしまう。

「……すっげー……勃ちますね」

「あの、あんまマジマジ見られると…」

「いやぁ、俺の、もしかしたら、ご期待に添えられないかもしれないですね……」

「まじで、恥ずかしいんで…」

 スルガは声を小さくしたが、むしろ堂々としていいのでは、とツイードには思えた。

「えっと、触ってもいいです?」

「いまさら…!?」

 ツイードは、広げたスルガの両足を手で押さえつつ、彼の顔を見上げる。スルガは眉を寄せ、渋い表情でぼそぼそと言った。

「俺も、さわらせてください。ツードさんの……さわりたいです」

 それを聞いてツイードは、満たされた気持ちで浅く笑う。

 触れたその熱をやわく押さえながら、ゆっくりとスルガに近寄り、耳元で「いーよ」と囁いてみた。

「……ッ」

 分かり易いほどスルガが身体を収縮させ、けれどすぐ彼の腕はツイードのベルトに伸びてくる。

 スルガがそれを外そうと力を籠めるが、留め具のピンが中々緩まらず、何度かカチャカチャと音が鳴った。

 こちらのほうも見ずに、自分の下腹部を一心に見るスルガの視線が、ツイードには少し面白い。手の中の熱を、ぎゅっと握りしめてみる。

「っ、まって…!」

 スルガは、躊躇いではなく、制するような声を出した。

 ああ気持ちいいんだろうな、とツイードには分かる。身に覚えのある形だが、触っている感覚がするのに触られている感覚がないことがなんだか不思議だ。自分と同じような場所で、同じように感じるのだろうか。湧き上がる興味が抑えきれない。ここまで硬いと、痛いだろう。

「ねえ、これ先に抜いちゃいません?」

「いやですッ、俺もさわりたい…!」

「はは、一緒にさわって一緒にイくんです?」

 からかってツイードが笑うと、スルガが真剣な口調で「そーですよ!」と返してくる。

 一瞬、スルガがツイードのほうに顔を向け、視線が合った。

 彼は大まじめに言っているらしかった。

 照れた表情の中にも、性欲に寄った熱意を感じる。

 

(やばい、抱きたい)

 

 ツイードの頭は、突如その感情に支配された。

 

(嘘だろ、すげえ抱きたい、やばい)

 

 抱く? どうやって。分からない。自らその手段を封じてしまった今となっては、ツイードがそうすることは叶わない。

 今はただ、彼の熱に触れることしかできない。

 もどかしさで、頭が焼けそうになってくる。

 

「…っ」

 スルガがベルトを外し終えたらしく、下半身の布が緩んだ。手荒に下着がずらされる気配がして、彼の手が自身の熱に触れる。その覚えのある感触の切れ端が、いっきにこれから起こる快楽の記憶を呼び起こしてくる。その快感がもっと欲しくて、ツイードは咄嗟に手の力を強める。握っていたそれを、もっと明確に擦りあげた。自分が欲しいのと同じ分だけ強く刺激すると、スルガが震えた声を上げながら、肩に頭を預けてくる。

「……ッ、ま、…ふ、ツードさん…っ」

 気持ちよさそうに額を擦りつけるスルガは、乱されて手の力を上手く扱えないようだった。次第にツイードを掴んでいた握力が弱まって、快感が逃げていく。それを追いかけるように、ツイードはスルガに踏み込んでいった。

「っ、あ…、ちょ、まって、ツードさん、いやだ、たんま」

 スルガは反対の手でツイードの肩を掴んだ。

 

 ぐっと身体が引かれて、スルガの唇に、噛まれるように口付けられる。

 突然やってきたキスと彼の舌に、ツイードはバランスを崩して後ろに手をついた。そのまま伸びてきたスルガの両腕を受け止めて、顔の角度をキスに合わせる。唇や舌だけでは性急さだけを焚きつけるようで、直接的な刺激に繋がらず、もどかしさで焼ききれそうなのに、もっと深くを求めてしまう。

 スルガの無遠慮なキスが堪らない。ツイードを求めてあがく姿に、ますます掻き立てられて息が苦しい。

 やがてスルガが唇をゆっくりと放し、けれどほとんど触れたままの距離で「俺ばっかじゃ…なくて」と言った。

「ツードさんと、したいんです」

 スルガの手がツイードの下にまた伸びる。軽いキスを何度も落としながら、スルガは蕩けるように呟く。

「もう、混ざっちゃいたい…」

 

 正直、その気持ちが痛いほどわかる。

 でもそれは結局、抱きたいと同義だろう、とツイードは頭の遠くの方で思った。それを言及しようにも、ツイードのコントロールはとっくに理性から欲求にハンドルを明け渡してしまっていたので、言葉も出て来ず、浅い息を繰り返すしかできない。

 酸素が、碌に入ってこない。そのせいで頭がぼーっとする。

 心臓の鼓動が、時計よりも早く脈を刻むせいで、時間の感覚が鈍って狂っていく。さっきからずっと、この加速したような時間の中で呼吸して、ゆっくりと溺れているみたいだ。

 

「わ、かりました、から…」

 ツイードは掠れた咽喉から、必死に音を絞り出す。

「わかったから、じゃあ、こっち、俺に擦り付けて…?」

 スルガの腰を抱いて、自分の身体に近づけた。スルガの肌が、直接触れる。

「……っ」

「一緒にでしょ…? こう、一緒にすれば、ほら…」

 スルガの手を、自身の熱に誘導して、彼の指がそれに触れる感覚に、自分でぞくりとなった。思わず、スルガの手を自らの手で覆って、強く擦ってしまう。

「あ、あ、ツードさん、やば、まって、え、」

「……ふ、…あ、スルガ、さ…、やばい、いっしょに…、早く、俺の手に置いて…」

 スルガを抱き寄せて、ツイードは自分の手に彼を当てつける。それはもう、信じられないほど硬くて、熱くて、はちきれそうだ。辛そうだとツイードは思った。こんなの、痛いだろうし、辛いだろう。

 楽にしてやりたい。

 そして何より自分自身が、早く楽になりたい。

 息が足りない。

 夢中でそれを握り、導くように強く擦る。

 肩を握ったスルガの手が、ぎゅっと爪を立てる。宙に浮いた彼の腰が、ひくつくように揺れていた。いや、振っているのかもしれない、とそう思った瞬間、脳の中でとんでもない快感の汁が溢れ出たのが分かった。

 「……ぁ、う、つ…どさん、ツードさん、も、むり、…イきそ」

 スルガの吐息が乱れ、切ない声が漏れ聞こえる。

 ツイードは自分の口からどんな言葉が出ているか、もうまったく意図できない。

 感じたことのない快感なのに、どこにも届かないもどかしさだけが、身体の芯から先まで全部を支配している。

 強くしてほしい。もっと強く。もっと欲しい。

 スルガの熱を強くでたらめに握って、激しく思い通りにする。自分のもそう扱ってほしい――という願望が、上手く叶わず、違う種類の刺激だけで頭を直接摩擦されているみたいだ。

 もどかしいのに、気持ちがいい。

 もうだめだ。最高だ。頭が痺れて、溶けて、なくなりそうだ。

「つーどさん……ッ、も、イってい? おれ、イっていい? でそう、むり」

 部屋の中はいつの間にか、お互いの音だけで充満している。

 音も身体も、ぐちゃぐちゃになっている。

「…っ、いーよ、はやく……」

「むり、それ、いいか、らぁ、あ、ぁ…ッ、ぁああッ、~~~~……ッ」

「……っ」

 声を共に、彼の身体が大きく震えた。

 手の中で、スルガの快楽が溢れ出たのを感じた直後、彼の身体を抱きとめて、ツイードも欲望をそのまま彼の手に吐き出した。

 身体中が痺れて震え、気が狂うほどの快感を伴う、人生で一番の吐精だった。

 

 

 

 

 

5-7

 

 シャワーは先にスルガに貸したけれど、彼はすごい速さで濡れて帰ってきた。本当に水でも浴びたのかと思うほどの時間だった。ツイードがタオルを用意してから、シャンプーの位置を教えようとシャワールームに顔を出したときにはもう、スルガがそこから出てきている最中で、「分かりました?」と聞けば、スルガはタオルを受け取って目をパチパチとしただけだった。

 

 ツイードは特に言及することもなく、自分も適当にシャワーを浴びてすぐに部屋に帰ってきた。

 その時には、スルガは首にタオルをかけたまま、ベッドに座り込んでいた。

 

「すっ…………ご、かった………」

 両手で口元を覆いながら、ベッドに腰かけたスルガが大きな吐息と共にそう吐き出す。ツイードはまだ濡れたままの髪をタオルで拭き上げていた。

「そうですか」

 

 服を脱いだスルガを、初めて見る。下はもうアサシン装束のそれを身に着けてしまっているが、上は素肌がむき出しの状態だった。服の上から見て細い身体つきだと思っていたけれど、脱げば結構、硬そうな肉質をしている。

 

(前衛なんだし、当たり前か)

 

「え、微妙でした…?」

 驚いたスルガが顔を上げる。ツイードは空想から我に返って「へ」と彼に答えた。

「いや、『そうですか』って」

「ああ、いや。すっごかったですね」

「余裕じゃん、嘘でしょ、俺もうパニックでしたよ」

 

 自分も大概だったけれどなぁと、ツイードはさきほどの時間を思い返す。部屋の荷物の中から、着る物を探しながら彼に尋ねた。

 

「スルガさん、泊まっていきます?」

「ええ!?」

 上に着る服を用意するかしないかの判断を仰ぐつもりでツイードは聞いたけれど、それにスルガは飛び上がるような大声を出す。

「泊まるのって、有りなんです!?」

「……まあ、狭いですけど、ベッド」

「いや! 全然大丈夫です! 床で寝れます、俺」

「床で寝るなら帰りましょうよ」

 言いながらツイードが薄いシャツを差し出すと、スルガは受け取ってすぐ頭からそれをかぶった。

 服を着てしまえば、スルガの体は着痩せするらしい。惜しいことをしたかもしれない。

「なんか…」とスルガがぼそぼそ口ごもる。隣に腰かけて、ツイードはスルガを見た。

 

「ツードさんって、やっぱめちゃくちゃ上手いんですね」

「え? なんで?」

 セックスの手腕に関してどうこう評価されたことは今までにない。そんなの本人に言う人間なんてそうそういないだろう。ツイードは自然と笑ってしまう。

「なんか、前情報ありました?」

「いや、ないですないです」

 スルガは大きく手を振ったあと、気まずそうに視線を斜め下のほうに逸らせた。

「俺の妄想……」

「はは! やっぱ妄想してんじゃん。なーにが一生しなくてもいいですか」

「しなくても妄想は自由でしょう!?」

 予想通りというか、スルガは本当に期待を裏切らないから可笑しくて堪らない。

 しばらくツイードが笑っていると、スルガは「そこまで…?」と眉を寄せて訝し気な目でこちらを見ていた。

 

 ふう、と息を付ける頃には、物言いたげなスルガの視線も幾分か落ち着いていて、ツイードはゆっくりその視線に目を合わせ、緑色の瞳の色を味わった。

 

「……なんか、思ったんですけど、」

 ぽそりとツイードが呟けば、「ん?」とほほ笑んでスルガが首を傾げる。

「スルガさんの好きって、心地いいですね」

 え、と彼は口では言ったが、顔は嬉しくてにやけてしまったようだった。

 それすら、可愛いことのように思えて、ツイードは言葉を続ける。

「夕方までは、それがぬるま湯みたいで、すっげー居心地悪いなって思ってたんですけど。もしかしたら、ずっと浸かってたいだけかも。逆に、出たら風邪引きそう」

 彼の視線は、彼の愛情に似ている。それを一身に受けていると、スルガの感情を、そのまま浴びているみたいだ。

「クセになっちゃいますね」

 緩く微笑むと、スルガは段々と顔を赤くしていった。

「俺は……ツードさんのそれのほうが、数倍……クセになると、思いますけどね」

「…俺のどれ?」

 いや、それですよ、それ、とスルガは言ったが、なんとなく分かる気持ち半分、彼が好きなそれは本当に自分なのかなぁ思う気持ち半分だった。

 

「ってか、夕方までは、気持ち悪かったんです……?」

「いや、まあ。今は違いますけど、ぶん殴ってやろうかと思ってましたよ」

「なんで!? そんなにです!?」

「ほら、くすぐったい時って、殴りそうになるじゃないですか」

「なるかなぁ!?」

 はは、とまたツイードが笑えば、スルガが不満そうな満足そうなわけの分からない顔のまま、やがて口を閉じた。

 

(結局、俺も欲求不満で頭バグってたのかも)

 

 ほんの夕食前までは、あんなかき乱されていた感情が、今では嘘のように凪いでいる。

 仕方なかったとも思えるし、もう少しなんとかしようがあっただろうとも思える。反省と同量程度の開き直りが、いつもの自分の塩梅で心の中を占めていて、今は平常心を保てているんだなと客観的にツイードは思った。

「ねえ、スルガさん」

 呼びかけるとスルガは目を合わせてくる。

 今はずっと、それを眺めていた気分だ。

「これからは、俺と飯食いたい時とか、飲みたい時とか、一番最初に、俺に聞いてください。教えますから、スルガさんには」

「へ」

 スルガはしばらくぽかんとしていたが、ツイードがその様子さえ穏やかに眺めていると、やがて照れたように申し訳なさそうな顔をした。

「そうは…してるつもりなんですけど、もっと、努力します…」

 

 あれでそうなのか、と思いはしたが、まあそうだろうなと理解する気持ちもあった。

 じゃあいっそ、誰の側にも行かないでくれ、という感情がふと湧いたが、さすがにそれは言わなかった。むしろ、自分がそう思ったことに、ツイード自身が驚いた。

 それは、さっきの情事の最中に感じた、抱きたい欲求の延長線上にあるものかもしれなかった。

 

「……なんかごめんなさいね、俺、こんなで」

 思考を巡らせれば巡らせるほど、自分という人間がとことん碌でもない奴のように思えてきた。

「見捨てないで付き合って下さいね」

 するとスルガは、心外だという顔で、真正面からいつもの調子で答えてくる。

「見捨てるって…またそれ、わざと言ってんでしょ。するわけないでしょ、俺が、先に好きだって言ったんですよ」

 

 目の前に、スルガがいる。

 自分のベッドの上で、自分の服を借りたスルガが、自分の事だけを見ている。

 そのことに、こんな心地よさを見出す日が、来るとは思っていなかった。

 

「んー。スルガさん、やっぱいいなぁ」

 

 

 

 

 

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微力(8)

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5-4

 

 宿は、酒場と目と鼻の先にあった。

 古いがシンプルな造りの安宿で、入口の掲示板以外は壁に何もかかっておらず、カーペットすら敷かれていない。

 ツイードの借りている部屋は、三階の廊下の突き当り右手側だ。

 狭く長い廊下を歩くツイードの後ろを、スルガは黙って付いてきた。酒場からここに来るまで、会話らしい会話はない。

 

 預かりっぱなしの鍵でドアを開けている途中、とりあえずの礼儀でツイードはスルガを振り返って言った。

「まあ、散らかってるんで、申し訳ないんですけど」

「あ、い、いえ」

 

 制止するように両手を振って見せたスルガの声は、少しだけ上ずっていた。頬が赤い。

 

(これって、期待させてるよなあ)

 

 酒場でするような話ではないかと変えた場所だったが、話の内容からいって、こんな時間にこんなところへ誘うのは酷だっただろうか。

 ドアを押し開けて、スルガを中に迎えながらその後姿をツイードはぼんやり眺める。

 相変わらず、形のいい背中だ。

 

 ツイードは部屋のランプに明かりを灯し、それを壁に掛けた。その間中、部屋の中央で不自然に立ち止まっていたスルガが、しばらく部屋の荷物を見ながらぽそりと呟いた。

 

「紙、多いですね」

 紙? ツイードはスルガの視線の先を追う。

 部屋の隅にある小さなデスクやその周辺に積んである本たちのことだろうか。確かに書きかけの書類は放り出されているし、読みかけの束が本の間にも挟まっているし、机上に収まらない雑誌の類は縛って床に置いたままになっているから、紙と言えば紙なのか。

 そんな表現をする人間をツイードは初めて見たが、この部屋に他人を入れたのは初めてだから、それが変わった感想なのかどうか推し量るすべはない。

「すみません、片付け苦手で」

 招くことを想定としていない部屋だったから、いくつか服も掛けたままだったし、窓際のテーブルには保存食や道具が置いてあるままになっている。

 

 そう言えば、この部屋には人を座らせる場所がない。

 

「あー…まあ、適当に、この椅子でも使ってください」

 デスクについた小さい椅子をテーブルの隣に運んで、ツイードはスルガに席を勧めた。上にある荷物をまとめてどかせてから、買ってきたビール瓶をそこに置く。

 元々、ベッドサイドテーブルとして使っていた机だったから、ツイードはすぐ側のベッドに腰おろした。

 椅子に腰かけたスルガは、何故か足を揃えていた。

 

「ツードさんの部屋って、こんななんですね」

「え」

 周りを見るスルガへ、ツイードはビールの栓を抜いてからそれを渡す。

「なんか変ですか」

「いや、なんも変じゃないです、普通です。でもツードさんの私物がいっぱいあって……いや、普通なんですけど、それも」

 彼の言わんとしていることは分かる。

 けれど、今ツイードが頭の中で巡らせている別れ話の切り出しと、スルガの喋る内容はどうにも乖離しすぎていて、なんだか現実味がなかった。

 

 ツイードは、自分のビール瓶を片手に持ち、おもむろに一口だけ飲み込んだ。さっきのワインより味がしない。

 

「ツードさん」

 スルガが少しだけ改まって、自分の名を呼んだ。

 視線だけ上げると、彼の目の意外な引力に捕まって、ツイードは目が離せなくなった。

「これって、キスとかしても、いいやつですか」

 

 スルガはこちらを伺うように、淡く柔らかい笑みを見せる。

 彼の声の響きが、甘い。

 ツイードは『しまった』と思う。

 これは考えていたより軽率で残忍な行為だった。彼の期待をまた断ち切らなければならない。もうスルガを無闇に傷つけるのは終わりにしたかった。

 早く言わないと。

 ツイードは一度唾を飲み込んでから、口を開く。

 

「別にキスぐらい、いつでもしていいんですけど、でもさ」

 ツイードの言葉に、スルガが「え」と照れたように表情を止めた。違う。頼むから最後まで聞いてくれ。止まらずに続けて動かす口からは、乾いた声しか出なかった。

「俺、たぶん、スルガさんの恋愛に、応えられないんですよね」

 

 スルガはしばらく、言葉に迷っていたようだった。それから、散々悩んで、彼は一度開いた口を、何も発しないまま閉じた。

 スルガの顔が見れなくなって、ツイードは視線を床に逸らせる。

「スルガさん、俺に付き合うの、勿体ないと思いますよ」

 

「……何が?」

 ようやく聞けたスルガの声は、慎重さと不安さに揺れている。

「何っていうか。時間とか…。感情とか、親切さ……とか」

 勿体ないという単語は、不適だったかもしれない。もっと根本的に、こんな関係はやめたほうがいいと思える根拠がツイードの中には確かにあるのに、それが上手く言葉になって出てこない。

 スルガは何度か、首を振った。

「そんなこと……絶対ないです」

 椅子に座っていた彼が、立ち上がってツイードの側に寄る。座ったままの自分に少しかがんで、彼はこちらの目を見ようと体を傾けた。

「俺、ツードさんと付き合ってて、前より好きに……なってる気がします。だから別に、今すぐ応えられないとか、そういうことは、どうでもよくて」

 

(…違う)

 たぶん、彼はこの話を、セックスのことだと勘違いしている。

 でも、その観点から言っても、自分の結論は同じだろうとツイードは思う。

 だったら彼の分かりやすいほうの話で構わない。

 

「スルガさんは、結局、俺とヤりたくなんないんですか」

 ツイードがスルガのほうを向き直り、その目を見て言うと、スルガは身体を少し後ろに引いた。

「な」

 目が僅かに見開かれ、羞恥に歪んだスルガが視線を窓に逸らす。

 

「……りますけど、……そういうのは、俺のほうだけじゃ…」

 

 スルガが、ツイードの前でそれを認めたのは、初めてだった。

 でも彼の口から直接聞こうが聞くまいが、ツイードには分かっていた。

 スルガの目。

 強く、劣情を携えた瞳。その視線の奥にはきっと、触れると熱いぐらいの感情がある。全部、自分に向けられた、熱量を持った感情だ。

 彼は自分を抱きたいのだろう。

 そんなのは、キスをしたときから、ずっと知っていたことだ。

 

 そして自分は、それに応えることに、根本的な拒絶を感じている。

 相手が誰であろうと、絶対に、自分は誰かに抱かれたりしない。その意思は何があっても変わらないだろうし、誰にもその尊厳を踏みにじられたくなかった。

 

「でも俺、たぶん一生その気になりませんよ」

 

 断れば、スルガがまた、あの顔をすることは分かっている。

 このまま付き合い続けていれば、これからずっとスルガをそうさせる。

 そのたび自分は悪者になって、スルガは踵を返し元来た場所に戻っていくんだろう。

 心がザリザリする。

 もう、うんざりだ。

 

「スルガさん、一生できなくていいの、セックス」

 

 言葉はもう宣告に近い。

 それでスルガが、そんなのは嫌だと言い出せば、それで好都合だと思えた。彼が自分で気づいて、自ら離れていって欲しい。ツイードの卑怯さに軽蔑して、二度とこちらに踏み込まないで欲しい。

 

 窓の外から、ガラガラと車輪が回る音が聞こえてくる。

 プロンテラの夜は暗くて静かで、遠くの気配だけが騒がしい。

 会話には間があった。

 しばらくして、スルガがゆっくり口を開いたのが、ツイードの視界の隅に映った。

 

「どうしてですか」

 

 彼の声色は、平坦だった。思いのほか落ち着いたその声に、ツイードは彼を見上げた。

 その表情からは、何故か戸惑いの色が消えている。スルガは正面にツイードを捉えて、強い目でこちらを見据えていた。

 

「逆に、ツードさんはいいの、それ」

「なにがです」

「一生、セックスできない人生」

 

 なんで、と尋ね返しそうになって、ツイードは言葉を止める。

 そんな発想、考えつきもしなかった。 

 そして今考えてみて、そんな人生、たまるか、と強く思った。一生誰とも手を取り合わず、肌を重ねず、夜を共にしない。永遠に暗い夜のまま、溝に落ちたドブみたいな人生だ。

(冗談じゃない)

 しかし、ツイードは同時に、自分の矛盾にも気づき始めた。

 自分の言った言葉の意味は、つまりそういうことだ。

 スルガがセックスできないなら、恋人である自分も一生できないのだ。思いつきもしなかった。なぜ、初めからそれを考えなかったのだろう。

 抱かれたくないという確定意思のことは、誰より自分が一番理解していたはずなのに。

 

 つまり付き合うという約束を違えない限り、そうあり続ける。

 自分はどうしたってできないことで、スルガがそれでもいいと言って、この付き合いは始まった。

 

 

 スルガが一歩、ツイードの側に寄った。その歩みに、床がギ、と音を立てた。

 彼は右手をのばし、そして、ツイードの左腕を服の上から握りしめた。

 

「………俺は、ツイードさんが恋人なら、一生できなくても、いいです」

 

 スルガの目が、今にも泣きそうなように、ツイードには思えた。

 

(この人は最初から、そう言っていたんだな…)

 

 ツイードはそれに今更気づいた。

 あの告白は、そういう意味だった。

 別れたくないと、きっと言われるだろうと考えていたはずなのに、実際のスルガを見てしまうと、上手く息が吸えなくなる。

 

「ツードさん、俺のこと好きになんないの…?」

 

 いつの間にか、ツイードのもう片方の腕も、スルガの手に捕まれていた。

 縮まった距離に、声の音はどんどんと小さくなっていく。

 スルガの両手に、ぎゅっと力がこもった。

 俯いた彼が、小さく、心もとない声を漏らす。

 

「俺のこと、好きになって…」

 

 彼の声は擦り切れそうだ。

 ツイードの咽喉は、締め上げられたように引き攣って痛くなる。

 

 体の中で、心臓がバクバクと動き始めた。

 胸の鼓動が痛いぐらい音を立てている。

 脈拍が、耳でも感じられるぐらい、激しく。

 体中が熱い。

 

(こんなの……)

 

 今、自分は、大きな岐路に立っている、とツイードは思った。

 頭は熱いのに、背筋だけは異様に冷たい。

 その選択の答えに、手を伸ばすのが恐ろしかった。

 

(俺は……)

 

 たぶん、この痛さは、心の渇望だ。そんなもの要らないと拒絶していたのに、本当は奥底から求めていたものが、たぶんこれなんだろう。

 

 いや、分からない。

 自分がどうなっているのか、どうなってしまうのか。何も。まったく分からない。

 顔を上げてくれ、とツイードは思う。

 目の前でスルガが、詰まった息を吐くのが、苦しくて仕方ない。

 もう、こんなのは、嫌だ。何を捨てたっていいなら、自分が捨てようとしていたものは、全部間違っていた。

 これ以上、この人が傷つくのが見たくない。それを見て、自分が傷つくのだって、まっぴらだ。

 そんな人生、自分が本当に望んでいたものじゃない。

 この人が欲しい。

 別れるなんて、間違っていた。

 

「俺はたぶん……」

 

 ツイードは息をのむ。言おうとして開いた唇が、微かに震えているかもしれなかった。力の入れ方が、もはや分からなくなっていた。

 

「もうとっくに好きなんです、スルガさんが」

 

 スルガがゆっくりと顔を上げた。

 彼の眉は寄せられ、口元は薄く開き、声が出ないようだった。けれどその顔には、確かに、安堵の表情が浮かべられている。彼の瞳に、自分の顔が映っていた。

 

「ごめんなさい。好きです、スルガさん」

 

 自分はずっと、これが見たかったのだととツイードは気がついた。

 

 

 

 

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微力(7)

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5-2

 

 実際のところ、今日やらなければならない用事なんて本当はなかった。

 プロンテラの街を散漫に歩きながら、ツイードは暮れかけの空を見上げる。

 行く当てはないが、このまま帰るのも嘘をついていたみたいでなんだか嫌だ。仕方なく、ツイードの足は教会へと向かう。少し前に提出した書類の確認がそろそろ終わっているはずなので、修正する仕事ができているだろう。

 

 大通りを北上し、噴水広場を通り過ぎているあたりで、この間の夜のことをなんとなく思い出す。

 こちらの手をぐいぐいと前に引くスルガの後ろ姿を。

 熱くなった耳、汗ばんだ掌、振り返った時に光った眼、歯の見えた口元、首元、咽喉、その下の服越しに見える鎖骨。じかに触ったスルガの肌は、しっとりした熱気を孕んでいた。

 最近、あの夜のスルガをこういうふとした拍子に思い出してしまう。

 

 スルガは、どうして自分を好きになったんだろう、とツイードは時々考える。

 それは、スルガが好きになったものは本当に自分なんだろうか、という疑問に似ていた。

 外面は本当の自分じゃないなんていう思春期じみた感覚ではなくて、もっと本質的な迷いのような感情だ。

 人間関係を円滑にするための愛想や、多少交えた方便のような嘘だって、自分自身だとは思うが、それは他人にも食べやすいように味を調えて出した一部であって、アクや臭みは全部抜いた後の産物だ。

 スルガは、それを知っているのだろうか。

 逆にツイードは、スルガのそれを知らない。

 

 黙々と歩いて教会にたどり着いた頃には、玄関のランプに灯がともるような時間になっていた。

 庭から裏口を通り抜けて目指すのは、いつもの書庫だ。

 軋む木製のドアを開け中に入ると、書官のアコライトが一人、デスクから顔を上げた。顔なじみだ。

「ああ、お疲れ様です」

 アコライト、ナツキはそう挨拶だけして、すぐに愛想もなく書き物に戻った。そして机に目をやったまま、手だけで入口隣の台を指差しして言う。

「できてますよ、そこです」

「あー、ありがとう」

 書類の束を持ち上げて、ツイードはパラパラとそれをめくり始める。

 

 どうという事はないまとめのレポートだった。自分の字でびっしり埋め尽くされた紙を眺めていると、内容のできよりも『よくこんなに書いたな』という感想しか出てこない。

 ツイードの黒色の文字に対して、青色のインクで書きこまれた線や単語が、それをチェックした上官の修正箇所だった。いくつかの単語や文が並び、時には段落まるまるひとつ分が大きくバツで消されている。けれど、修正は予想より少ないな、というのが全体の印象だった。

 

 

「褒めてましたよ」

 ナツキが言った。

 その態度は生意気だったが、実際よくできる優等生で、おそらく彼ならば自分が出した程度の書類なら、もう既に同じクオリティの物をいくつか書き上げているのだろうなと思えた。

 たまに顔を出す自分のようなプリーストが、冒険者らしからぬレポートを寄越すことや、それを読んで褒める上官の姿などは、このアコライトにとってそんなに面白い話ではないだろう。

「そう」

 ツイードは軽く返事をして、斜め向かいの椅子に腰を下ろす。

「特にそれは。レポートじゃなくて、ペーパーにするべきだって」

 ナツキはツイードのほうを見ていた。俯いていたツイードも、彼のほうに視線を上げる。

「そう? そんなできじゃない」 

「したほうがいいと思いますよ、俺も」

「へえ」

 ナツキの真面目な顔に、ツイードは興味が出る。

「なかなか公正な目、してるんだな」

「公正も何も。読めばわかります」

「そっか」

 

(……俺には全然、分かんないけどな)

 

 レポートをデスクに投げ出して、ツイードはそれらを眺めた。

 評価されるべきかそうでないのかすら分からない書類も、そんなものを未だに書いている自分も。

 たまり場に出て、狩りに行って、モンスターをなぎ倒している時の方が、よほど自分自身だという実感が得られる。そういう意味で、自分は冒険者に向いているのだろう、とツイードは思った。

 逆に言えば、目の前の書類や、本棚に囲まれたこの書庫の空気は、つい数年前まで自分の全部だったものなのに、今ではまるで別の世界の出来事のように思える。

 

「俺には向いてない」

 呟いたツイードの独り言に、「でしょうね」とナツキが相槌を打った。その度胸に思わず笑ってしまって、ツイードはこのアコライトの事が嫌いになれない。

 

「真剣にこればっかりしたい、って人じゃなきゃ、向くものじゃないでしょ、こんなの」

 ナツキはペンを走らせる手を止めない。

 確かにな、とツイードは心の中でため息をついた。

 彼の文字を書き続けるペンとそのペン先に滴るインクとは違い、ツイードのそれは蓋を開けたままにしている内に全部乾いてしまったのだろう。

 

 ツイードはデスク中央にある教会の備品のインクを手にとり、キャップを外す。隣にある借り物のペンで、投げ出した書類のいくつかに修正を加え始め、初めから最後まで一周をさらっと直してから、束をまとめて席を立った。少し時間はかかったが、書いている間ずっと無言だったせいで、体感時間は早く感じた。

 

「お疲れさまです」

 書類に向かってナツキが言う。

 彼のぶれない視線の先を見ながら、自分の情熱の向く先は、一体どこにあるのだろうとぼんやり考えて、ツイードはまた木製のドアに手を掛けた。

 ギイと軋んでそのドアは開いて、ツイードを外に締め出したのち、バタンと勢いよく閉まっていった。

 

 

 

 

 

5-3

 

 

 外はもう、すっかりと夜になっていた。

 昼間に食べた最後の食事は、狩りがひと片付けした後に取ったからずいぶんと遅くなってしまって、そのせいか今はまだなんの空腹も感じない。

 たまり場の打ち上げに参加する夜なら、適当に肴をつまんでいたらそれで事足りるのだが、一人の夜はどうしても夕食に悩んでしまいがちだった。

 結局、ツイードは自分の宿から近い行きつけの酒場へ足を運んだ。

 一人で飲む酒は決して美味くないが、腹も減らない時に一人で取る食事よりは、まだいくらか味がするだろう。

 

 辿り着いた夜の酒場は、日も落ちた今が盛りの時間帯で、多くの冒険者の客がそれぞれのテーブルで賑わい、店内はほどよいざわつきに包まれていた。

 ツイードは入り口近くのカウンターに腰を下ろすと、一番安いオードブルとワインを頼む。口髭を蓄えた店主は、無言でそれに頷き拭いていたグラスを置いた。

 

 大衆酒場の前菜は感心するほど早く、露店売りの床に並べられた商品のような乱雑さで、皿の上に乗せられて出てくる。

 オリーブの酢漬け、アンチョビ、ベーコンにスモークチーズ。どれも腹が膨れるものではなかったが、今のツイードの胃には十分な量だった。全体的に暗い色をしたそれらの一つにフォークを突き立てる。

 

 なんだかすっきりしない気持ちなのは、今日の打ち上げを断ってしまったからだろう。

 おまけに教会にまで寄ってしまって、ツイードの今の感情はノイズが激しくなっている。オードブルよりも雑然とした脳内の言葉たちも、一つずつ摘まみ上げて口に放り込めれば楽だろうにと、無駄な空想を頭に巡らせた。

 

 食事を断った時の、俯いたスルガの顔を、ぼんやりと思い出す。

 

 こういうざらざらした怒りを、スルガにぶつけるのはお門違いだ。

 伝えもしていない自分側の問題のせいで腹を立てられたら、彼もたまったものではないだろう。

 丁寧で誠実なスルガの態度と、それをどこか綺麗事のように感じている自分。

 自分の手を引くスルガの肌の感触や、抱きしめて口づけた首元の感触ばかりが心地よくて、いっそそれ以外は全部わずらわしいもののように思えてくる。

 本来ならそんな斜めに歪んだ感情で、彼に向き合うべきではないんだろう。

 あの人はもっと大切にされたほうがいい。

 

 自分は、悪いことをしているのだろうか。

 ツイードには、もう分からない。

 

(これ以上踏み込まれたら、まずいな…。振り払って、殴りそうだ)

 

 ツイードは頭を抱え、大きく溜め息をついた。

 視界に入ったグラスのワインは、気づけばカラになっている。デカンタにすればよかった。

 追加の飲み物を頼もうか悩みながらツイードが顔を上げると、端にある入り口のドアが開き、外の冷えた空気がカウンターに入り込んで来る。

 席を空けるべきか、と戸口のほうを見たツイードは、入ってきた冒険者の姿を確認して、その動きを止めた。

 

 そこにいたのはスルガだった。

 店内を何度か見渡した彼と、途中でばちっと目線が合う。

「あ」

 

 少し申し訳なさそうにはにかんだスルガの顔を見て、ツイードの内心は、突然重いものを乗せられた天秤の針のようにガタガタと揺れ始める。

 乱れた感情は、驚きや怒りや呆れの中に、なぜか安堵の気配が混ざっていた。

 

「えっと、……すみません、こんばんは」

 

 近寄ってきて自分の隣の椅子に腰かけたスルガを、ツイードは茫然と眺めていた。

 

「なんで、ここ」

 口から漏れた疑問に、スルガがおずおずと答える。

「えっと…、サラエドさんに教えてもらって」

「えっ? 来てました?」

 普段はたまり場に来ない友人の名前に、ツイードは尋ね返した。

 スルガは、「あー…、飲み会に顔だしてて」と頬をかいた。

「あんま話したことなかったんですけど、今日は席が近くて、仲良くなって…」

 

(人たらしかよ)

 

 誰とでもすぐ打ち解けるのか、このアサシンは。

 サラエドは、どちらかというと警戒心の強いタイプのハンターだ。表面上はヘラヘラ笑っていても、腹の内はあまり明かさない。その彼が、この酒場をスルガに教えたという事は、よほど気に入られたんだろう。

 

「……ツードさん、遅くなるからってだけで、俺と飯食うのが嫌ってわけじゃないっぽい言い方してたんで……。あの、すみません、急に来て」

「…………いえ、全然」

 上手く、言葉にならなかった。

 別に必ずこの酒場に来るわけでもない。ここに来たからといって自分に会える保証はなかった。それをスルガも理解していたはずだ。無駄足になる可能性もあったのに。

 

「用事、どうでしたか」

「あ、終わりました」

「飯、もう食っちゃいました?」

「いや、これが夕飯ですね」

「マジですか? ツードさんって意外に物食いませんよね」

「そうです? そうかなぁ」

 そんなこともないですけど、と口から声を出しながら、ツイードの言葉は感情の表層を滑っていく。

 何故かは分からない。

 そもそも、スルガがどうしてここに来たのかも分からない。

 答えのめどは簡単につく。彼はもちろん、自分と食事がしたかったんだろう。

 でも何故。

 それはもちろん、自分の事が好きだからだろう。

 だったら、それこそ、どうしてだ。

 

 

「ツードさんがここにいるうちに、来れてよかったです」

「打ち上げ、早く終わったんですね」

 ツイードが顔を上げると、スルガは「はは」と照れ笑いして、視線を横に逸らした。

 

「みんなに追い出されて、抜けてきちゃったんです」

 

 はにかむスルガを見て、ツイードは声が出ない。

 自分の感情が、今また無理やり床に押さえつけられて、上から踏まれたような強さで震えているのが分かった。

 彼の背を押すのは自分じゃない。自分では、俯かせて小さくさせるばかりだ。あのスルガをみていると、頭の奥が絞られたみたいに痛む。

 いつのまにか、スルガの『可哀想』が、『可愛い』と思えなくなっている自分に、ツイードは気づいた。

 

(もう、駄目だ。別れよう)

 

 その結論は、ひらめくようにやってきた。

 そう考えたあと、何を今更こんなことを思いついたみたいになっているんだ、とも思った。

 その結論はもうずっと前から、ツイードの中で決まっていたことのように思う。

 自分がまともに他人と付き合えるわけがなかった。結局、振り回して、振り回されただけだった。

 

(早いほうがいい。言うなら、もう今夜でいい)

 

 スルガのことだ、別れても、みんなに慰められるに決まっている。片思いで付き合って、数ヶ月ですぐフられて、泣きながら酒を飲んで、それを仲間に慰めてもらう。そういう一連の流れすら、なんだかもうスルガらしいではないか。

 

「ツードさん?」

 スルガがツイードの顔を覗き込む。

 ツイードは、手で押さえた額を無理やり上げて、スルガの目を見た。

 

「スルガさん、良かったら、俺の部屋来ませんか」

 

 

 

 

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微力(6)

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4

 

「あれ、スルガさん一人じゃん」

 スルガが昼過ぎのたまり場でいつもの石段に腰かけていると、そこにやって来たのはマシューとオーフェンだった。二人はこのたまり場では有名なハンターとプリーストのコンビだ。

「ちわ」

「ちわーっス」

 スルガがまだたまり場の新参だったころ、既にその時は常連だった彼らがよく狩りへと誘ってくれたから、二人には何となく恩がある。

 カラーサングラスの似合うハンター、マシューは、誰にでも気さくで面倒見の良い性格の男だった。それと対照的なのが隣にいる背の高い緑髪のプリースト、オーフェンで、彼はいつもマシューの横で、冷静な面持ちのままその様子を眺めている。

 スルガはここに来るようになってから彼らと知り合ったが、そもそもこの辺りでたむろしている冒険者連中でパーティーを組んだり狩りに出かけたりする今のスタイルを作ったのは、この二人だったらしいというのは知人から聞き及んでいた。どうも彼らは付き合いの長い相方のようで、いつでも二人でいるのを見かける。

 

「たぶん、今日はもう来ませんよ」

 突然、オーフェンが口を開いた。

「え?」

 スルガが彼を見ると、あくまで表情を変えず落ち着いた調子でオーフェンが言う。

「ツードでしょ」

「あ~、昨日、俺ら完徹しちゃって」

 マシューが照れたように頭の後ろに手をやった。

「え、そうなんです? お疲れさまです」

「あはは! いや、狩りじゃないですよ、ポーカーですって」

「あ、ポーカー」

「打ち上げの後、俺らの部屋でやることになってさ。もう大乱闘。寝るに眠れぬ大勝負ですよ」

 俺は結局負けたけど、とマシューが笑い、大負けだったな、とオーフェンがそれに付け足した。

「あはは、楽しそうっスね」

「今度スルガさんも来なよ、盛り上がりますよ、ツードも喜ぶし」

「え」

 目の前の二人がポーカーをする姿を思い浮かべていたスルガは、突然出されたツイードの名前を聞いて思考が止まる。そうか、その席に彼はいたのか。トランプ数枚を手に持ってカードをテーブルに投げるツイードの様子が、ありありとスルガの脳に浮かんだ。

 見たい。

 けれど、自分がそこに混ざったとして、それを喜ぶツイード――という構図は、上手く想像できなかった。

「……いや、喜ぶかな」

「あれ。喜ばない?」

 スルガのあげた疑問の声に、はたと気づいてマシューがオーフェンを見上げる。

「さあ」

 オーフェンは相方の視線に小首を傾げるだけだ。マシューは顎に手をやる。

「そういや、喜んでるとこ、見たことねえな?」

「見たことないは言い過ぎだろ」

「だって、アイツ昨日負けてなかったよな? 喜んでた? 素面みたいな顔してたけど」

 表情の薄い人だからな、とスルガはツイードの伏せられがちな目を思い出す。きっとゲーム中はあまり大きな動きもせず、視線だけで場の様子を伺うに違いない。まるでいつもの酒場での彼みたいに。

 そういう勝負がツイードにはとてもよく似合う。

 思い浮かべつつ、スルガは尋ねた。

「ポーカー強いんです?」

「え、俺?」

 マシューは自分を指さして驚いたが、隣から「馬鹿、ツードだよ」と小突かれて、「あ、ツードか」と照れて笑った。

「強いかな? 普通? 弱くはないけど、そんなエグくはないですね。アイツはねーコイツと違って、腹黒ムッツリどスケベ鬼畜プリーストじゃないんで」

「連敗中なんですコイツ」

 情報を補足するオーフェンに、マシューは遮って言う。

「だーッ、俺はロマンに賭けたんだよ、お前は人の心を捨ててたけど。でも結局ツードみたいなさぁ、ああいう安牌で絶対負けないやり方のやつが、トータルで一番損しないよなぁ」

「まあ」

 ツードだからな、とオーフェンは一言つぶやいて、「まあな」とマシューが相槌を打つ。それから余りにもその結論がしっくりと来過ぎて、言葉は一旦なくなった。

 案外、危険な手を使わないんだな、とスルガは思う。たぶん、ツイードがもっとリスキーな手でハイリターンを得る狂人プレースタイルだと聞かされても、スルガはそこまで驚かなかった。逆に今とことん無難を好む、と聞かされているが、それはそれで納得できるから彼の性格の輪郭は曖昧模糊としている。

 この人たちの間でも、ツイードはそうなのだろうか。

 仲間にも他人にも裏表がない性格だと思うけれど、裏を見ても表を見ても彼の真意が掴めない。

 

 スルガがしばらく黙っていると、マシューが「まあ」と話を戻した。

「というわけだから、アイツ、たぶん朝に帰って爆睡してますよ。だいぶ眠そうだったし。今日は来ないかも」

 ツイードの『爆睡』を想像するのが難しい。でも彼はいつもどことなく眠たそうな顔をしている。

「ツードさん来ない日って、そういう日だったんですね」

「アイツ、わりと寝坊とかであっさり休みますよね」

「あー…」

 それは、本人も言っていた気がする。

 

(基本的に、嘘はつかないんだよなぁ)

 

 ツイードの言葉は、だいたい事実と矛盾がないんだな、という統計が最近スルガの中で取れてきている。自分のほうが勝手に別の解釈をしている勘違いはあるけれど、明らかな虚偽申告は今のところひとつもない。

 過去のツイードの発言をぼんやり思い返していると、マシューがスルガの顔を覗き込んだ。

 

「っていうか、スルガさん、ずっと待ってました? 約束とかしてないんです?」

 ツイードと、と彼は尋ねるので、スルガは首を振る。

「あ、今日は別に」

「いつもはどこで?」

「……え、どこっていうか、ここで会いますけど、……特に約束してないですね」

 スルガが答えると、マシューは不思議そうな顔をした。

「え、デートも?」

「……いやあ」

「狩りも?」

「ここで会うし……」

「マジで!? 会わないときどうするんですか!?」

「まあ、今日みたいに、待つとか……」

「えええ!?」

 マシューの声は次第に大きくなり、最後には叫んでいるようになった。

「待ち合わせしろよ! アイツ何やってんの?」

 彼はオーフェンを見上げて何かを訴えようとしたが、相方はどこまでも冷静に、そして窘めるように諭して聞かせる。

「そんなのそれぞれ勝手だろ」

「いやぁ! スルガさん待ってんだよ!?」

 二人のやり取りになんだか申し訳なくなり、スルガは割り入って彼らを止めた。

「あ、いや、俺マジで勝手に待ってるだけで、別にほんとそれだけなんで」

「だって今日も……、え、いつから?」

「……朝から」

「けなげすぎねえ!?」

「そ、そうですか? 別にやる事ないんで…」

「いや、ここにいたって余計にやる事ないでしょ」

「まあ、どこにいてもやる事はないんで…」

「?」

「??」

 マシューが眉を寄せたまま意味が分からないような顔をするから、スルガもスルガで考えが混乱してくる。

 どうしてだか、話に齟齬が生まれている気がするが、自分たちがどこに躓いているのか分からない。

 目を合わせたままパチパチ瞬きをしていると、オーフェンが「いい加減にしろ」と、マシューのフードを引っ張った。

「おい。人の事情にあんま口挟むな」

「だってさ」

 マシューはオーフェンを振り返り、やがてスルガのほうを向き直り、何度か顔を見比べながら、諦めたように「はあ」と大きくため息をついた。

 

「……俺、なんかスルガさんに幸せになってほしくなってきた」

 

 マシューの言わんとしている言葉の意味がスルガには分からない。

 たまり場を介しての知り合いでしかなかったツイードと、話せて、付き合えて、一緒に飲み食いしたり、夜にデートできたりする今のこのポジションは、スルガにとって思い描いていた理想に近い関係だ。

「えーっと……」

 マシューの、なぜか親愛と同情が入り混じった瞳を、スルガは両手で制しながら、『本当にどういった誤解なんだろうこれは』と二人の顔を眺める。

 

「いや、今けっこう幸せですけど、俺……」

 

 

 

 

 

5-1

 

 その日の狩りはゲフェンだった。戦闘は万事滞りなく、無事プロンテラに戻ってきた頃には夕暮れで、空がクリーム色から紺色へと変わってきていた。

 ツイードは聖水やらブルージェムストーンやらの消耗品が多く、その書き出しにけっこう時間を食った。結局、清算係のブラックスミスのところに向かったのは最後の方になってしまったのだった。

 

「はい、配当」

 ツイードの渡したメモにさっと目を通しただけで即座に金勘定が終わったらしいブラックスミス、ビジャックの手から清算分配を受け取って、その日の仕事はあっけなく終わる。

 計算速度のあまりの速さに、確認する気も起きない。こういうのは頭のいい奴に任せておけばいいというのがツイードのスタンスだ。顔見知りに会計を預けるのは何といっても安全だし、多少計算ミスがあったところでそれも手数料だと思えた。

「お疲れ様でーす」

 軽く挨拶して、袋を法衣の内側にしまう。

 さて、と振り返ってたまり場に改めて目をやれば、こちらの様子を伺っていたらしいスルガが、何か言いたげな顔で近づいてくるのが見えた。

 

「あの、」

 はい、と答えてツイードは立ち止まる。

 おそらく、彼は今日も、自分を食事に誘うつもりなのだろう。スルガと付き合いだしてから、狩りの終わりはこうやって話しかけられることが増えた。

 

 もともと、このたまり場では、その日のパーティーのメンバーで夕食がてら打ち上げをすることが結構な頻度であった。ツイードはそれにまあまあの出席率で参加していたから、ほぼ毎回出席のスルガとは、そこそこに同じ場所で酒を飲んでいたと思う。

 ただそれも偶然の域を出ないイベントであることを向こうも自覚しているのだろう。自分の恋人になったスルガは、狩りの終わりにこうやって律義に飲み会の勧誘をしてくるようになった。

 

 そのこと自体に不満はない。

 この間も、夜に散歩のような行為をしたが、それも思いがけず楽しめた気がする。

 ただ、それとは別に、最近になってツイードはこの付き合いがわずらわしくなってきているところがあった。

 

「この後、飯とかどうですか」

 

 おずおずと尋ねるスルガをツイードは少し引いた視線を眺めてみる。

 彼はこちらの清算が終わるのを待っていたのだろう。

 スルガの背後には、同じく、飲み会へ行くための足を止めているらしい他のたまり場のメンバーの姿があった。

 そういう状況のとき、彼らの目はいつも期待に満ちている。

 それは、ツイードが飲み会へ参加するかどうかへの期待ではなく、スルガが恋人の勧誘に成功するかどうかの行く末を気にしている眼差しだ。

 狩りの後、スルガが自分を食事に誘うとき、いつも仲間たちの視線が後ろにあった。

 

(こういうの、めんどくせえな)

 

 囃し立てられることよりも、じっと見守られているほうが、わずらわしさを覚えるのはどうしてだろう。やめろ、散れ、と声を掛けられないだろうか。彼らの視線を拒否する権利が、スルガにはあって、ツイードにはない。 

 どうして自分たちの関係には、いつも周囲の視線があるのか。まるで、観客のために演じている舞台みたいだ。

 

(俺を飯に誘いたいって情報が、俺より先に他人に知れ渡ってるって、どんな状況だよ)

 

「ツードさん?」

 スルガの呼びかけに、我に返る。

「あ、すみません」

 それに反射的に答えて、ツイードは改めてスルガの目を見た。

 スルガの瞳は、彼の髪の毛のような空色に少しだけ黄味が混ざった不思議な緑色をしていて、虹彩は薄く透けている。この眼に真正面から見られることに、最近は慣れてきたばかりなのに。

 

「あー、いや、今日はちょっと予定が。やめときます」

 返事を聞いたスルガが、目に見えて縮んでいく例のあれをやってみせる。肩を落としても背が伸びている感じは、何度みても興味深い。

 自分のことで一喜一憂するスルガを見ていると、悪いことをしたかな、とツイードの罪悪感はちくりと痛んだ。

 けれど背後の冒険者たちがまたちらっと見えて、それにどうしても自分の判断を変える気にはなれない。

 

「すみませんね、待っててもらったのに」

「あ、いえ、どうせいつもの飲み会なんで」

「また次、参加しますね」

「はい、また、次に…」

 そう言い終わったものの、スルガは数秒、止まったままだった。

「……」

 スルガの視線が、床を這う。

 それを見ていると、面倒なのともわずらわしいのとも違う、形容しがたい苦みのようなものがツイードの胸にこみあげてきた。

 

「あー、用事、すぐ終わることには、終わるんですけど…」

 口からこぼれ始めた自分の言葉に、ツイードは不可解な気持ちになる。

「いや、やっぱでも、遅くなるかもなんで…。なんていうか、」

 顔を上げたスルガが少し意外そうな顔をしていて、ツイードは自分でもこれは自分らしくない態度だなと思った。

「待たせても悪いし、飯は一人で食いますね」

「そう、ですか」

「……、また、行きましょうね」

「はい……」

「じゃあ」

 スルガの視線がいたたまれず、ツイードは踵を返した。

 

 自分は何をやっているんだろう。

 歩き始めたツイードの背後から、仲間たちの「なんだよースルガー」という声が聞こえてきて、余計に、頭の中に靄がかかる。

 

(なんだよ、これ)

 

 自分は、振り回されている。

 けれど、それ以上に、自分が彼を振り回していることの方が大きいんだろう。

 なんだか、悪いのは自分ばかりみたいだ。

 釈然としない感情が、だんだんとイガイガした怒りに代わってきている。

 

 フェアじゃない、と気持ちでは思うのに、きっと一番フェアじゃなかったのは、あのとき好奇心だけで彼の好意に乗った自分だ、と気づいているから、理屈の操作ができないんだろう。

 結局のところ、『そもそも付き合っている自分が悪い』という極端な発想でしか、折り合いがつけられない。

 

(なら、さっさと別れるのが道理だろ)

 

 いい加減で場当たり的な関係を、妥協的に続けたくない。

 どうしてこんな投げやりな気持ちになるんだろう。

 後ろからスルガの視線を感じたけれど、振り返らないまま、ツイードはたまり場を後にした。

 

 

 

 

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微力(5)

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3-3

 

 ミョルニール山脈の北奥地にある鉱山の炭鉱。かつてはミョルニール炭鉱として多くの鉱物や石炭が排出されたが封鎖されてもう長い。そこにモンスターが住み着きダンジョンのような巣窟と化してからは、その廃鉱は冒険者のかっこうの狩場となっていた。

 スルガも幾度となく溜まり場の仲間と訪れたお馴染みの探索ポイントだ。

 

 狩りメンバーは毎回変わるので、目的地に着くまでの道のりでパワーバランスを確認しつつ試し狩りをしながら歩くのが溜まり場パーティーの常だ。その日も仲間たちはいつもの調子でずんずんと深層へ進み、慣れた狩場に到着するころには今回のパーティー内で誰がどのポジションになるかおおよその感覚が掴めている状態だった。

 二人居るプリーストのうち、オーフェンはもちろん相方のハンター、マシューの支援にまわるから、後衛だ。

 となると、先陣を切る前衛組、スルガたちの支援は、自然とツイードの役目になる。

 少しだけ心が浮き足立つ――なんて喜んでいる余裕が、スルガにはない。

 この場所はモンスターの湧きが多く、相当な頻度で修羅場になる。

 襲い来る敵が次から次と後を絶たないから、処理速度によっては溜まりが出来てしまうのだった。

 

「行った! そっち行った!」

 既に三体のスケルワーカーをスルガが相手にしている状態のとき、後方からスミの声が飛ぶ。彼女自身も相当数の敵を抱えているようで、手助けできないらしい言い草だった。スルガは慌てて叫ぶ。

「ないないないない! 無理これ以上!」

 しかし、仲間の返答は無情だった。

「でも行っちゃったもんは仕方ないですよねー!?」

「ですよねー!」

「うわああああ!」

 無我夢中で敵のピッケルをかわし、スルガはカタールを叩き込む。

 遠くから、他人事のような後衛陣の声が聞こえてくる。

「おお……耐えてる」

「避けてる避けてる」

 悠長な事を言ってないで早く処理して欲しいが、それを訴えるだけの余裕がない。惨めな前衛の辛さなんて後ろには一生分からないだろう。涙を堪えながら、スルガは敵に切りかかる。

 彼らとて、別に遊んでいるわけではない。後衛の圧倒的な追撃が無ければ、こんなに大量の敵を相手にすることは不可能なのだ。その詠唱を、邪魔されないために自分たち前衛は身体を張らねばならない。そんなことは分かっている。分かっているが、今まさに自分の鼻先をかすめるような速度で振り下ろされるアンデットたちのツルハシを、次から次へとかわし続けていると、まるで戦場の中で自分だけが悲惨な目にあっているような錯覚に陥ってしまう。

 あと何秒このまま持ちこたえればいいのか、味方の陣を意識した瞬間、スルガの視界の隅で黒の法衣が揺れた。ツイードだ。後方に来た。彼が詠唱の体勢に入ったのが分かる。

 

(回復きたッ)

 

 スルガはそれを目の端で確認すると、フライングで思いきり敵の懐に踏み込んだ。自分が攻撃を受けても確実に相手の急所を突けるだろう一歩を。

 凶器がこちらに迫ってくる。ツイードが叫んだ。

「――“グロリア”!」

 その声に驚いて、しかしスルガの身体は聖力の効果を受けてより精密に動き、刃は深くに切り込めた。一撃を受け、よろめいた敵の爪は本当にスルガの、目の、まん前を通っていった。避けて反射的に前へ転がれたのは計算じゃない、ほとんど運だ。モンスターの背後を取ってから、止めていた息を吸い込む。

 

(グロリ!? んな馬鹿な、先ヒールだろう、俺、血まみれなのにッ)

 

 アンデッドの背中に一刺ししたカタールを抜きながら、スルガは自分の支援を行っていたツイードの方を振り返った。

 視線が合う。

 彼はこちらに気付いて満足そうな顔をした。「なんだ、やればできるじゃないか」と、言わんばかりの目。

 その瞬間、ふいに、いつかの夜かわした会話の内容が、頭に浮かんだ。

 

―― 『当たったら死ぬだろうけど』

―― 『確率は半々かな、みたいな』

 

 まさか。

 後からツイードが唱えたヒールに、スルガの体は僅かばかり回復した。囲まれていた敵を一掃したわけではないから、モンスターがひっきりなしに襲ってくる。

 

(ああ…、ツードさんが、笑ってる…)

 

 ツイードの口元は楽しそうに歪められていた。

 それはプロンテラの街中で見せる愛想のいい顔とはまったく違う、とても強気で『慈悲深い』笑みだった。

 左後方から飛んでくる爪をかわしつつ、スルガは複雑な気分になる。

 

(いや…まあ、結果的には、オーライなんだけど……)

 

 なんだろう、この扱い。あんな顔、普段は見せる男じゃない。今までだって、彼のこんな表情は見たことがなかった。もしかして、自分だからなのか? これを特別扱いといっていいのかどうか、スルガは眉を寄せる。戦闘中にそんな考え事をする脳の余裕はなく、一端思考を強引にリセットした。

 集中してカタールを振るえば敵の数は徐々に減っていく。数さえ減らすことができれば、サシで負けるような相手ではない。やがて修羅場も落ち着いて、少しした頃に遅れて応援が来る。あちらも敵が殲滅できたのだろう。

 こちらの戦闘に加わりながら、仲間たちは、殆ど片付いているモンスターの様子を見て、スルガを適当に褒めた。

「おー、やれば出来るじゃん、スルガ」

「いい子、いい子」

 全員でかかれば、清掃もあっという間だった。

「いやー、沸いたなー」

 増えたほうはスルガに任せたくせに、スミが一仕事終えた後の笑顔で汗を払う。

「ちょ、やったの俺だって」

「ほんと、沸きましたねー」

 リーシャがスルガの言葉を遮るように微笑んで言った。わざとだ。それに皆が笑い出す。

「もう駄目かと思ったもんな。主にスルガが」

「よく耐えたよ、お前」

「ほんとにねー。ツードさんがいてよかったねー」

 彼らがこちらの応援に来るころにはツイードからのヒールも無事スルガに届いていたため、彼のとんでもない所業を知る者はいないようだった。前線の一瞬で下した危険なギャンブルなんかそ知らぬふりで、ツイードはいつも通りの態度だ。「愛のチカラよねー」などとマリアが彼をからかうと、「なに言ってんですか、マリアさんまで」と苦笑する彼は、まるで好青年のようだ。

 戦闘中見た、あの微笑みはどこにもない。匂いさえしない。

 ツイードが、あんな笑い方をすることを、スルガは知らなかった。

 

(……この人、もしかして)

 

 いや、別に、彼のことを清廉潔白な真面目一徹だなんて、思っていたわけじゃない。

 どこまでいっても、あの溜まり場にいるプリーストなわけだ。彼も、普通のギルドやパーティーに入りこぼれたからあそこに来ているくちのはずで、そんな人間だというのは、理解していたはずで。むしろある意味、期待を裏切らない行為だったかもしれないわけで。

 

(なに言ってんだ俺)

 

 そもそも、事前に彼が言っていた話が、単に本当だっただけのことだろう。ツイードは戦闘中にそういう選択をする、と、彼自身が前もって言っていたではないか。

 どこか本気にしていなかったのは、スルガのほうだ。どうせ冗談の類いとして聞き流していた。誇張表現か何かだろう、と。

 スルガが想像していた――いや、妄想していた――高潔なツイード像というものが、普通に裏表のある人間的なプリースト、という情報で上書きされた。

 彼は、他の連中となんら変わりなく、大人として決して優等生とはいいがたい、というかむしろ結構ダメな部類の、スルガと同類の人間なんだろう。

 知らなかったわけじゃない。そんなこと、分かっていた。今の今まで、忘れていただけだ。

 

(う、…浮かれてたァ…)

 

 ふいに、ツイードと目が合って、彼はまた、スルガに微笑んで見せた。

 その微笑は、戦闘中のそれの邪悪さに比べれば、全然なんともない普通の彼の表情だった。

 それを見た瞬間こそ少し憎たらしかったが、けれどもう次の瞬間にはその気持ちが消え、スルガはむしろいっそ嬉しいとさえ思えて、彼に微笑み返した。

 この場で彼の笑みの意味を知っているのは、たぶん自分だけと思えたからだった。

 彼の眼が言う心の声が、少しだけ理解できるような気になっていた。

 

 

 

3-4

 

「ライのばかぁああああ!!」

 囲んだ円卓に、スミが突っ伏しながら、彼女の恋人を罵倒する。その声は遠くから聞いても彼女がまともに立って歩けないだろうことが分かるぐらい、呂律がまわっていない。

 周りの人間は苦笑しながら彼女を励ます。ときにからかう。悪酔いするポジションの人間が日によって変わりはするが、狩りの打上げはだいたいこんな風に進行していくのだった。

 スルガは長いテーブルのほぼ反対の位置でわいわいと泣き叫ぶ彼女とその周りの仲間を見ながら、あの調子じゃ今日はまだまだ飲むな、と一人頷いた。下手をすれば徹夜コースだろう。

 

 スルガの隣には、ツイードが一人で飲んでいた。決して孤立しているわけではないが、どのグループに専属しているわけでもない。無表情でもなく、時々振られる会話には、さっきからずっと参加してるような口調で返し、微笑んで見せたり、大袈裟に笑ってみせたりはする。なのにツイードの飲み方は何故か一人で飲んでいるように、スルガには思える。まるで、空気となって周囲に溶け込んでいるみたいだ。違和感はないけれど、印象にも残らない。

 

 今日は、昼の狩りの事があったからか、スルガの心情は少しツイードに対して戸惑いがあった。

 昨日までは、飲み会の席でなんとかツイードの横に座ろう、隣の席へなんとか滑り込もう、と意気込んでいたのだが、今日は別に座れなければ座れないで構わないという気持ちで席についた。そういう消極的な席取りをしたのにも関わらず、そんな日に限って何の問題もなく、むしろ避けるのが難しいようなタイミングで、ツイードの隣の席は向こうからやってきた。そして運命を恨めしく思いながらスルガはその席に座っている。もっと死ぬほど座りたかった日には、絶対座らせてくれなかったくせに。神様の馬鹿やろう。

 

 気が付けば、ツイードの視線が一番にぎやかなスミたちの集団に向いたようだった。黙ったまま、グラスの中のワインをくいっと飲みほすツイードを見ながら、スルガは、彼はあの連中の長引く酒に付き合うのだろうか、とぼんやり考えた。

 何か理由を付けて返ってしまうツイードも、酔っ払い達に付き合えと絡まれて苦笑しながらも夜を明かすツイードも、同じぐらい容易に想像できた。つまりは彼にとって、どちらの選択肢も簡単だということだ。

 けれど、どちらの行動も想像できるのに、ツイードが何を考えてそれに至るのかが、スルガには分からなかった。何を考えて承諾するのか、或いは拒否するのか。

 目の前で空になったグラスをテーブルに置く、たった今の彼が、どんな気持ちでそこに居るのか。

 

(ツードさん、いつもなに考えてんだろう)

 

 何を考えてヒールではなくグロリアを選ぶのか。何を考えて自分と交際をするなんていう暴挙に出るのか。想いを告げられた当初はあんなに嫌そうな顔をしておいて、どうして恋人という役職を獲得したスルガを、隣に座らせたままにしておくのか。

 スルガにはさっぱりだ。

 

「……おなか」

 スルガが呟いた一言に、ツイードは自分にかけられた声だと気づいて、視線をこちらに寄越した。

「減ってません?」

「大丈夫ですよ」

「…アレ、だいぶ、かかりそうですね」

「スミさん?」

 ツイードは急に話題を変えたスルガの話にもするりと付いて来て、型通りの苦笑いをした。

「かかりそうですねえ」

「抜けましょうか」

「ん?」

 ツイードが次の酒を頼んでしまうまでがチャンスだと思った。スルガは真っ直ぐツイードの目を見る。その瞳の奥に、彼の思考への手がかりがあるかもしれないと、そんなことを一瞬だけ考えたけれど、片目だけが覗く透き通った赤紫色の瞳を見ても、スルガには何も分からなかった。けれど無遠慮なぐらい、じっと彼を見つめたまま彼を誘う。

「抜けましょうよ」

 ツイードは少しだけ目を開いた。だが、すぐにふいと視線をそらしてしまい、平坦な口調で言った。

「いーですよ」

 

 

 

 

 

3-5

 

 仲間には、スルガから適当な理由を言っておいた。

 自分たちが一緒に店を出るのだと知った仲間たちは、どことなく納得したような顔で、素直に飲み明かし会のリタイアを許してくれた。あの虚をつかれてポカンとした顔は一体なんだったのだろう。スルガには、少しおかしい。

 

 扉から出ると、ツイードは少し前を歩き始めていて、スルガは彼を追いかけた。

「はーっ、良かった」

突然、ツイードが声をあげる。

「いや~、どうやって抜けようか、考えてたんですよ」

 渡りに船だったのだとツイードは笑った。あの顔は、そんなことを考えている顔だったのか、とスルガは先ほどの情景を思い浮かべたが、彼の表情と思考が繋がる糸は見えない。いや、彼のこの発言を鵜呑みにして、端的に思考へと繋げてしまうのは、こと彼の場合は問題じゃないのか?

 慣れない探りに、スルガの糸は頭の中でぐにゃぐにゃと交じり合う。

 

「朝まで続かんばかりの勢いだったでしょ?」

「………そうです、ね…」

「スミさんとこ、荒れてんのかなぁ」

「……ですかねえ」

「…?」

 

 そこで僅か、ツイードがこちらを見た。眉を寄せたまま虚ろに返答するスルガに、ツイードは違和感を覚えたらしい。スルガは慌てて会話に集中する。

「ライは浮気性っていうか、飽き性だから。スミはそーゆうのを怠惰って思っちゃうタイプだしなぁ」

 今朝の、デートをすっぽかされた話を思い出すにつけ、スルガの知るところのスミとライオネルの関係は、そういう点でぶつかり合うことが多い。

「ライもサボってるわけじゃないんだろうけど」

 少し肌寒い夜風が、流れている。ツイードは両の手をポケットにしまい込んでいた。そして、さっきまでの会話より急に声のトーンを落として彼は言う。

「関係を持続させる努力をサボったら、それはもう怠惰だよ」

 へ? スルガが聞き返すより早く、ツイードは話題を変えた。

「さて!」

 再び突然に変えられたトーンに、スルガは言葉を忘れる。

「じゃあ、俺は帰って寝ますね」

 気づけば、お互いの宿屋に向かうための分かれ道は、もうすぐそこに近づいていた。

 今、囁かれた呟きを彼はすぐに消したが、あれこそが、ヒントだったんじゃないか、とスルガは思った。今のがチャンスだったんだ。ひらめきが高揚に変わる。

 タイムリミットがさしかかっていた。

 スルガはとっさに、ツイードを呼び止める。

 

「ツードさん」

 なんだか妙に、明快な気分だった。

 不思議と、自信もあった。彼は、『これ以上自分といる時間を積極的には所望していないのだろう』という確信だ。

 それがどれだけネガティブな発想だろうと、彼の思考の一旦がはっきりと読めているという状況が、なぜだかスルガの背中を押していた。

「散歩でもいきません?」

 行きたいわけではないのだろうと、スルガは知っている。

 ツイードは断ってくるだろうか。

 それともやはり、しぶしぶ付き合うんだろうか。

 スルガが交際を申し込んだあの日のように。昨日までの夕食や、送って行った日の抱擁のように。

 望まぬ回答を、戯れのように口にするのか。

 そこはもう曲がり角だった。ツイードがこのまま道を左に行けば、彼の宿が待っていた。

 ツイードの歩みが止まる。

 スルガは静かに、動き出す彼の唇を追った。

 

「……行きません」

 意外にも、ツイードは全うに断った。

 しかしそれが、今のスルガには、適当に承諾されるよりもよほど良い回答のように思えた。

 少なからず心が浮き上がる。

 おそらく、昨日までの状況でこんな断られ方をしたら、スルガは見ていて分かりやすいほどに落ち込んだだろう。自分でも、今の自分がここまで強気に出られるのが不思議だった。

「どうして?」

 スルガがそう尋ねて、初めてツイードがぴくりと表情をゆがめる。

(きた)

 その表情の変化に、スルガは期待どおりの感触を得た。

 

『行きたくもないのだけれど、行かなければならない』

 おそらく、ツイードはこう考えている。何故かなんて、スルガには分からない。どうして分かるのかも分からない。でもなんとなく、匂いで分かる。ツイードの摩訶不思議な思考回路の切れ端が、そこに覗いている。

 

(さあ、どうくる? 次はどう断る?)

 断れば断るほど、ツイードの本音が見える気がした。

 だからもっと断られたってそうじゃなくたって、どっちに転んでも好都合だった。

 

 ツイードは一旦、言葉をつぐむ。

 そして少しの間、考えるように沈黙し、次の一手を切ってきた。

「……それって、デートですか?」

「!」

 なんていう手だ、とスルガは思う。

 

 わざと恋愛的な言葉を引っ張り出して、こちらが交際して貰っているのだと引け目に感じていることを逆手に取る気だ。

 ツイードは僅かに勝ち誇ったような余裕さえみせて、不適な笑みを浮かべていた。

 その表情には、命を預かる身でありながら、ヒールという回復より、グロリアという攻撃の一手を選ぶ、昼間のツイードの顔が見え隠れしていた。

 ああ、これがこの人なのか。

 

 しかし、今のスルガには恐れがない。

「そうですよ」

「……」

 答えれば、ツイードは眉をしかめた。

 さあ、もう彼には断れないだろう。付き合っていることに対しての責任を取る気が、ツイードにはあるのだ。彼にとって、これはそういう駆け引きなのだ。

(関係を持続させる努力をサボったら、怠惰……か)

 ぽろりと本音をこぼすほどに、罪に近い惰性を、彼は嫌っている。

 

 視線を反らしたツイードは、やがて、観念したようにため息をついた。

「……なら、いいですよ」

 

 

 

3-6

 

 自分から言いだしたのだから、これはデートだ。今更ながら、スルガはその事実を思い出し、冷や汗をかく。

 ツイードの思考パターンが初めて読めたという感動に浮かれて、選択を誤ってしまったとしか思えない。

 

 スルガは、ツイードの手を引いて、噴水広場のほうへと歩いていた。あの十字路で、自分の宿にも相手の宿にも通じていない道が、その道しかなかったためだ。咄嗟に選んでしまった。

 ツイードの挑発に乗って、デートだと大見得を切ってしまった焦りから、せめてデートらしくと彼の手を握ったのも、間違いだった。お陰でさっきから手にも厭な汗をかく。繋いだ部分から、急に大きく脈打ちだした鼓動がばれてしまいそうだと、スルガの心は平常心を保てない。

 スルガはツイードより一歩前を歩いているため、仲良く手を握るというより、彼を引っ張っている格好になっている。ツイードの隣をゆっくり歩くだけの余裕が、今のスルガにはない。

 ツイードは何故か黙っていた。

 カツカツと、靴が敷きレンガを鳴らす音が、夜の建物に響く。

 夜がまだ深けきっていないのが幸いだった。通りにところどころ並ぶ宿屋や飲み屋などからは、人々の喧騒が聞こえて、それが幾分か気を紛らわせてくれる。

 

 夜の噴水広場は、恰好のデートスポットだった。閉められた露店の前や、ベンチのあちこちに、身体を寄せ合った男女が点在している。スルガはカラカラの咽喉の唾を無理やり飲み込んで、更にツイードの手を引いて歩く。

 広場はそのまま直進で抜け出て、王城の堀あたりまで来たとき、ツイードが「ちょっと」と声を上げた。

 

「どこまで行くんですか」

 いつまでこの格好をさせる気だ、と彼の目は言っていた。

 さっきから、ツイードの感情が読めることがスルガの興奮をちっとも収めてくれない。全能感のような、そういう錯覚に陥ってしまう。

「人のいないとこっ」

 カップルがいると何か気まずいから、という意味でスルガは言ったのだけれど、発言してしまった後で、今のは何か誤解を招くような言い方だったかもしれない、と不安がよぎった。

 案の定、ツイードは「ハァ?」と声には出さずに顔を歪めたが、しばらくしてから、ぐっとスルガを引き、立ち止まった。

 その力にあっけなく、スルガの足も止まる。

 歩みを止めてみれば、自分が少し乱れた呼吸をしていることにスルガは気付いた。アサシンの息が上がるのだから、ツイードには早すぎるペースだっただろうか。

 

「あのですね」

 ツイードが溜息をつきながらも、落ち着いた声で言う。

「何を焦ってるのか知りませんけど、今日は何もしませんよ」

 月明かりに照らされて、ツイードの長い前髪から覗く瞳が、ちかりと光った。牽制だ。今のスルガには理解できる。『何もしませんよ』

 

(随分な言い方だなぁ)

 

 これはデートなのだから、別に何かしたっていい。理屈的には。スルガは驚くほど冷静にそう思えた。論法が見える。ツイードは、次の手を窺うように、こちらを見ていた。

「何もって、何ですか?」

 スルガは目を逸らさずにそう言う。

「何か、するんですか?」

 矛盾するような言い回しになった。けれどたった今「しない」と言ったばかりの男は、それでも言葉に詰まって眉を寄せた。効果のある一手だったらしい。

 しばらく、間があいた。

 じっとスルガを見ていたツイードの強い眼差しから、ふっと力がぬける。

 そしてツイードが、声に出るほどの分かりやすい溜息をついた。

 

「……なんなんですか、今日のスルガさん。強いんだけど」

 ツイードは首の後ろをかいたあと、お手上げだとでも言いたいのか肩をすくめてみせる。

「なんかあったんスか」

 拍子抜けするほど気の抜けた態度だった。

 振りほどかれたツイードの手が、法衣の内側を探る。しかしお目当ての煙草は無かったらしい。軽い舌打ちをするツイードに、スルガは自分のポケットから煙草を取り出して、それを彼に渡した。「あ、どうも」とツイードが礼を言う。

「俺、普段、そんなに弱いですか」

 スルガが率直にそう尋ねると、ツイードは火をつけた煙草を銜えたまま、くは、と笑い声を漏らした。

「あっはは。すごい質問ですね」

「ツードさんが、先言ったんじゃないですか」

 ツイードは堀際の芝生に腰を下ろした。それに倣って、スルガも地面に座る。

「言いましたね、俺。言いました。そうですね、強かないですね」

「やっぱ、弱いんじゃん…」

 ツイードの口から吐き出された紫煙が、夜のしけった空気の中を漂って行った。スルガはちらりと、ツイードを見る。その視線に、ツイードはスルガのほうを見て、そしてニヤリと微笑んだ。

「でも、今は強いよ」

 ちょっと敵わないかも、とツイードは言う。けれど、その笑み自体がスルガには余裕の有り余っている表情のように映った。さっきは、やっと彼の尾を捉えたかと思ったのだけれど、やはりツイードはするりとスルガの手を抜ける。

 敵わないのはどっちだ、とスルガは自嘲ぎみに片頬を引きつらせた。

 

「これって、デートですよね」

 スルガは煙草を燻らせるツイードへ、確かめるように尋ねる。ツイードはほとんど表情を変えないで、「そうですよ」と返事をした。

「じゃあ、何ができるんですか」

 スルガの質問に、ツイードは答えない。スルガは続けて、ツイードに言う。

「何かできるんなら、したいんですけど」

 ツイードはゆっくりと煙を吐き出してから、「やっぱ強いなぁ」と独り言のように言った。それから彼は、スルガの顔をはっきりと見る。

「だから、今日は何もしませんって」

「デートなのに?」

「あ~なんだなんだぁ? スルガさん、どーしちゃったんです?」

 茶化すようにツイードが声を上げた。スルガがムっとして、次の言葉を言おうとした瞬間、ツイードは弁明するように手を横に振る。けれど俯きながら大きく腕を振るその仕草は、少し投げやりな風にも見えた。

「ちがうちがう、あのですね」

 まいったなぁと、ツイードが顔を上げる。

「ねえ、スルガさん、ここはキスで手を打ちませんか」

 ぐっと、ツイードが前に乗り出してきた。突然に縮まった距離に、スルガは言葉を失った。間近で、ツイードの赤紫色の目がじっとスルガを見上げる。

「……それならいいでしょう?」

 動くツイードの唇を、スルガは自然と目で追ってしまう。それに触れてもいいのだという許可が、たった今下りた。

「……駄目です」

 スルガはそう答えながら、しかし自然に、まるで引き寄せられるかのように、ツイードの唇に口付ける。そっと触れたはずの唇は、スルガが前にのめり込むと簡単に開き、中の柔らかい舌を吸い出すことができた。唾液の感触が、中毒的な心地よさを生む。何度かそれを舌で撫で上げ、軽く吸い、気付けば存分に味わってから、スルガはツイードを開放する。

 は、と目の前で、ツイードが呼吸を求めた音がした。

 

「……。なんでしたんですか」

「え、ツードさんが、いいって、言ったから…」

「でもスルガさんが駄目っつったんですよ」

 

 そうだな、とスルガは内心で頷く。それは分かっている。キスで手を打とうと言ったツイードに、自分は駄目だと断った。頭では理解できるのに、衝動には抗えない。

 いや、こうは考えられないか。手を打つ気はないが、キスはしたい。

「ツードさん、もっかいしていい…?」

「駄目です」

 ツイードは、ぴしゃりと断った。近づきかけていたスルガの顔は、ツイードの手によって押しのけられる。

「今したでしょ」

「うん、だから、もう一回」

「なんでそんな発想になるんだ? あんた、大丈夫か? 酔ってんです?」

 ツイードは疑うような視線で、スルガの瞳を覗き込んだ。頭の具合を心配されて、スルガの浮遊した思考もわずかに落ち着きを取り戻す。

「いや、でも、できるなら、したいって意味で…」

「……」

「嘘です、調子のりました」

「はい、よろしい」

 ツイードの、どこか白い目線が、スルガの頭に上った血をどんどんと引かせていく。

 過去に自分が言った言葉が、スルガの脳内に駆け巡った。

 あのルティエのダンジョンで。ツイードの目を見ながら言った言葉。

『そういうの、あんまり考えないで、俺と付き合ってくれませんか?』

 

(あー…でもやっぱ、したいのかも。ツードさんと……セックス、とか)

 

 ぼんやりと、うまく回転しない頭のまま、スルガはそう考える。

 この内側から急かされるような感情が、性欲でなくてなんだというのだろう。さっき口付けた唇にばかり目がいってしまう。血管が、咽喉で感じられるほど脈打っている。

 すうっと、また、ツイードが煙を吐いた。その横顔を見ながら、言えるわけない、とスルガは思う。言えるわけない。

 この状況で。言えるわけがない。

 

(俺、もしかして、最低やろうかも)

 

 唇に、ツイードの感触だけが残った。

 

 

 

 

 2020.11.12

 

 

 

 

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微力(4)

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2

 

 東プロンテラの雑多な酒場通りの一角。割とよく来る店のカウンターで、オレンジ色のランプをぼんやり眺めていたツイードに、後ろから声がかかった。

「よう」

 通りのいい声。振り返れば、サラエドがそこにいた。たまり場常連の一人であるハンター、マシューの弟である。少し年が離れてはいたが、小さい頃から兄の友人たちに混ざって狩りをしていたせいか、年齢以上に大人びたところがあるハンターだ。時折、癖のようにでる末っ子みたいな仕草とその落ち着いた雰囲気があいまって、独特の馴染み易さと近寄り難さがあった。そんなところをツイードは気に入っていて、マシューとは別に個人的な付き合いでよく飲みに出たりする仲である。たまり場連中とは来ないこの酒場を彼が知るのもそのせいだ。

 そういえば、ここ一ヶ月ほど彼の姿を見ていなかったなと、本人を目の前にようやく思い出す。

 隣の席について、手馴れた調子で麦酒を頼む彼はとても十代に見えない。

「なんだお前、兄貴のコスプレみたいな格好して」

 その日のサラエドは、薄緑がかった髪を短く切り込んで、ふちの黒いアンダーフレームの眼鏡をしていた。伊達だろう。マシューは同じ髪型の青色で、オレンジのファッショングラスがトレードマークである。

「楽でいいよ、この髪型」

 へらりと掴みどころのない笑いをして、サラエドは出されたジョッキに口をつけた。

「ああ、そんなことより、聞いたぞ、ツードさん」

 一杯目をいっきに飲みきらないまま、彼はかっこうの遊び道具を見つけたという瞳を隠しもせずにツイードの肩をつついた。

「スルガさん」

 ニンマリ微笑むサラエドから、ツイードは思わず視線をそらしてため息をつく。言われるだろうとは思っていたが、実際、彼のような付き合いの人間から、その話題をふられるのは苦しい気分だった。

「そんなに切羽詰まってたのか」

 独り言のように呟いたサラエドの言葉が聞き捨てならず、ツイードは聞き返した。

「誰が」

 睨めば、その真意が分からないでもないくせに、きょとんとした顔をみせて、彼は答える。

「スルガさんが」

 そうかわされて、ツイードは少しムキになった自分を咄嗟に馬鹿だと思った。思考の幅に余裕がなくなってきている。後からじわじわと恥ずかしさが湧いた。

「まさか告るとは思ってなかったけど、あんたがオーケーしたことのほうに吃驚だね」

「思ってなかったって、知ってたのかよ、お前は」

「んー、まーね」

 適当な返事をしてサラエドはジョッキに入っている分の酒を飲み干した。

 こんなところにまで知られていたなんて、と、スルガの筒抜け度合いに、ツイードは渋い顔で額を押さえる。どこまでオープンなんだ、あのアサシンは。

「周りから固められてたのか…」

「そんな作戦まで張れる人じゃないけどな、スルガさん」

「いや、気づかなかった俺が悪い」

「だな」

 慰めもせず、サラエドは相槌を打った。終わってしまったことは仕方ない――彼の横顔にはそう書いてあった。ツイード自身、同情を求めたわけではない。

「んで、どーなの、新婚生活は」

 後ろに団体ギルドが入ってきたらしく、酒場はざわついていた。その喧騒にまぎれてサラエドが酒の肴になりそうな話を求めてくる。

 新婚だなんて、わざわざ大げさな単語を使ったりなんかして、彼も性格が悪い。相変わらずだ、とツイードは含み笑いをしながら、その話題に乗ってやった。

「どっちかってと、アコライト同士の初交際って表現が近いんですけど」

 スルガと付き合いだして、一週間と半分ぐらいが経っただろうか。実際、話して聞かせるようなことなど何も起こってない。

 初めの夜に少しあれこれがあって以来、拍子抜けするほど進展がなかった。変化と言えば、一緒に狩りに行く回数と、夕食をとる回数が増えたこと、あと外野の冷やかしくらいだ。周囲のあからさまにニヤニヤした気遣いが多少煩わしいのは覚悟していたけれど、肝心のスルガ本人の態度はそれほど回りくどくなかった。三日に二回程度の狩り。食事に関してはそれの半分ぐらい。周りからも不自然と思われず、かといって必要以上に間合いを詰めるわけでもない、適度な頻度だと思う。

 まったく何もしないとなるとお節介焼の仲間たちが、何かくだらない理由をあれこれつけて無理やり自分たちを二人きりにしたがることが、ツイードにとって一番面倒な問題であったので、それが回避できている今の付き合い方は、意外なほど心地よかった。

 もしかして、この状況はスルガの意図的な計らいなのだろうか。『そうだ』とも『そうじゃない』とも言えるだけの情報がツイードの手元にはない。

 

「スルガさんも馬鹿じゃないってことじゃないの」

 しばらく黙っていたツイードに、サラエドが分かったような口をきく。何を生意気な、と思われる事が目的のようなものだから、彼はたちが悪い。

「いや、俺はよく知らないけどねー」

「適当なこと言うの、ほんと好きだなお前」

「適当に生きてますからね」

 ころころ変わる外見が、彼の内心を分からなくさせる。ツイードは元々、こういった飄々としたタイプの人間が好きだ。スルガのような、本音全開の暗殺者なんてバランスの悪いものじゃなくて。だったら何故、自分はあの男の誘いにそそのかされたのか。

「……。……立ち姿がさ」

「うん」

 口から漏れた呟きに、サラエドが相槌を打ったから、ツイードはその続きを飲み込むタイミングを見失った。仕方が無い。ずるずると声に出してしまう。

「きれいだったんだよなぁ」

 床に向けられた視線、まっすぐ通った背骨。振り下ろされたカタールとアサシン装束。

 あの姿だけは、何度見てもいい。

「え、何これ惚気?」

「ちがう、言い訳だ」

「どの口からそんなもん出てくんだっての。俺びっくりしちゃったよ」

 サラエドがここで初めて溜め息らしきものをついた。

 『ちょっとしっかりして下さいよ』と苦笑まじりに彼の肘でつつかれて、これが今までの順当な反応だよなあとツイードは思う。

 スルガの件に関しては、暖かい祝福なんかより、呆れ半分の忠告が欲しい――そう思っている自分がいた。この奇妙さに怪訝な顔ををしてくれないと、まるでツイードが本当に恋愛してるみたいじゃないか。

 

(いや、本当に付き合ってんだけどな)

 

 一緒に傍観者になってくれる友人がいないと、頭がすっきりしない。舞台と幕の内の線引きがいつまでも曖昧なままになる。

 どうしてスルガと付き合っているのか、理由と目的があやふやに飲みこまれてしまう。しっかりと、掴んでいなければ。せめて自分ぐらいは自分自身を理解していなければ。思い出させてくれる友人は大切だ。

「サラ」

 彼の名を呼べば、ん?とサラエドは顔をあげた。何か思い浮かんだ感謝の言葉はどれも独りよがりで、口にする気にもなれずツイードは違う話題をふった。

「お前は何してたの」

「俺?」

「しばらく顔、見せなかったろ」

「へへ、それがさ」

 待ってましたと言わんばかりの彼の笑みを見て、なんだそっちこそ持ちネタがあるんじゃないか、と、ツイードは自分の下らない話をして損した気分になる。

 楽しそうに話し出すサラエドの横で、ツイードは呆れながら苦笑し、友人のためのあらゆる返し文句を考えながら自分のグラスに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

3-1

 

『ハ…っ』

 吐息が聞こえた。

 それはとても甘い声だった。

 滑らかな肌は、触れるだけで吸い付くようにスルガの手に馴染む。

 ツイードは、潤ませた瞳を揺らせ、スルガの名を呼んだ。

『……ス、ルガさ……はやく』

 腕が引き伸ばされて、スルガはその手に誘われるように顔を近づける。

 秘所はもうずいぶんと濡れていた(、、、、、、、、、、、、、、、)

 躊躇いはあったが、彼があまりにも気持ち良さそうな声をだすもので、罪悪感も忘れ肩に口付ける。ツイードの身体はピクンと引きつった。

『ちが…。なぁ、もう分かってんでしょう…?』

 スルガの頬に、ツイードの指が当たる。

 分かっている。

 唾液を飲み込めば、自然と喉が鳴った。

『……い、いんですか?』

 こく、とツイードが頷く。スルガの脈が、激しい音を立てて全身に血をかけめぐらせる。

 バクバクバク。

 そっと、その部分を触った。驚くほど、簡単に、指は内部へと入り込む。

『ア…』

 彼の声は普段よりも高く、快楽に埋もれているのが容易く知れた。

 ゆっくり、指を動かせる。

『…ぁ、…ンっ、スルガさ、ン、あ、あ、あ』

 ツイードの声に導かれるように、スルガは指を奥へ、そして強く内側を擦ってやる。

 彼の声が脳髄に響く。

 挿れたい。

 頭がそれ一色に染まった。

 早く挿れたい。早く。『ア、もっと…ッ』早く。『あ、あ、スルガァ…!』早く。

 

 ガンッ!!

 

 扉が叩かれて、ビクっと全身の筋肉が収縮した。

 

「スルガ!! お前、約束すっぽかしてまだ寝てるとか、いい度胸ね!!」

 

 飛び起きる。

 ドアの外から聞きなれた怒鳴り声が響いていた。

「スルガさーん、だいじょぶですかー?」

「スルガ~~!!」

「ちょ、近所迷惑だろお前」

「ねえコレ大丈夫? 開けたらツードさんが裸で寝てるとかそういうオチない?」

「ないない! ヘタレアサシンにそんな甲斐性あるわけねえ!」

 

(夢か……!)

 

 スルガは咄嗟にテーブルの上に置かれた自分の装備を確認した。

 カタール一式、短剣が二本。

 

(そろってる)

 

 ほっとしてから今の現状を把握した。待ち合わせ、寝坊、外には仲間たち。

 スルガは急いでベッドから立ち上がり、衣服を整え、慌ててドアの鍵をあけた。スルガがノブを捻るより早くドアは開かれ、ガンッと盛大に顔を打ちつける。

「スルガーーー!」

 最初にドスドスと入り込んできたのは、アサシン、スミだった。

「わるい、今起きた」

「見りゃ分かるわよ! 死ねこのタコ!!」

 自分より頭一つ分以上背が低い彼女に思いっきり足を踏まれ、スルガは思わず飛び上がる。

「~~~ッ!!」

 そんなスルガを構うことなく、戸口で待たされていた仲間たちは、ぞろぞろと部屋へ流れ込んできた。

「あっれ、思ってたよりキレイ」

「変な匂いもしないね」

 プリーストのアンナとウィザードのリーシャが、部屋をきょろきょろ見渡して、そう失礼な感想を述べる。

「なんで俺の部屋、臭いこと前提なの…?」

「いいから早く仕度しなさいよ。アンタ揃わないと狩りに行けないじゃないのさ」

 スミは床を足で打ち鳴らしてスルガを急かし立てた。

 開け放たれたドアにもたれ掛かったハンター、この中では唯一の男性であるレムスアルドが、同情に満ちた生暖かい視線を向けている。

「レム」

「俺は知らない。寝坊したお前が悪い」

 たった一人の味方に見捨てられ、スルガは頭を垂れつつ、寝起きすぐに所在を確認したカタールへと歩み寄った。

 同じテーブルに置かれていた包帯に手に取り、会話のついでにそれを巻く。首、手首、足首。間接の邪魔にならないように巻くのは初めのうちこそ時間がかかったが、さすがにもう慣れた。服を着替える間も出て行く気なんてまるでないらしい友人たちは、スルガの部屋で好き勝手にくつろいでいた。

「なんっもないね」

 アンナが感心するように言った言葉を、スルガは「茶も出ないのか」という意味だと勘違いして、部屋の隅にあった食料がごったに入っている袋を指差した。

「いや、食いもんぐらいありますよ。そこ、クッキー缶あるからどうぞ」

「そうでなくてさ」

 ねー?とアンナがリーシャに同意を求めた。リーシャは頷き、スルガに言う。

「なんか、こう…本、とか」

「ホン~?」

 アサシン装束に腕を通しながら、スルガは言われた単語のあまりの馴染みなさに眉を寄せた。

「俺、そーいうのさっぱりだから、読みませんよ?」

「でもなくてー」

 もどかしそうに言葉を探すリーシャに、ベッドでこれ以上ないほど寛いだ格好のスミが顔の前で手を振った。

「コイツにそういう知的さとか求めても」

 あんまりな言い方だとは思ったが、実際、教養とかいうものとは皆無な人生を歩んできているので、スルガはスミの悪態に反論する言葉をもたない。

「…いや、確かにないけどさ」

 食い違う彼女らの会話を遠巻きに見ていたレムスアルドが、解決の糸口を提供する。

「っていうか、食料と武器以外、なんもなくね?」

「あー、それ! そういうの!」

 アンナが入り口のハンターを見ながら、納得がいったように何度も頷いた。

「え? お前ら違うの?」

「いや、もっとなんかあるだろ」

「服、とか」

「あるじゃん」

「もっと数」

「ってかこの部屋で、帰ってきたら何してんの?」

「何って…寝る?」

「寝る前」

「ええ? なんかするもんなの?」

「スルガ、お前一体、一日何時間ねてんの?」

 スミが言った最後の言葉に、残りの三人が笑い出した。

 あーそれでいつも一人最後まで元気なのね、とアンナが続けて、スルガの部屋の話題はお開きになった。なんだか釈然としないままスルガの身支度は終わってしまう。

 手荷物をまとめて、ぞろぞろと部屋を後にした。

「なんもないくせに、おっそいよ」

「ってかスミはなんでこんな機嫌悪ぃの?」

「昨日、彼氏にドタキャンされたから、今日は約束破りにはキビシイんだよねー」

「彼氏じゃないって!」

「なにそれ、超やつあたりじゃん」

「いやいや、お前が寝坊しなかったらよかっただけの話だろ」

「えー。俺の寝坊はデフォルトにしといてよぉ」

 言いながらスルガは、何か狩りに行く約束でもしていたっけ?と疑問に思った。

 昨日の記憶をかすれた頭から引っ張り出してくるが、どうにも思い出せない。普段の狩りなんかは、その日たまり場に集まった連中で適当に行くものだから、わざわざ自分が泊まっている宿まで出迎えにくるなんて珍しいのだ。そんなことをさせるほど、しっかりした約束だっただろうか。した覚えすらない。

 まあ、いいか、とスルガはすぐに思いなおした。

 とりあえずたまり場に行く雰囲気になっている仲間たちの後に付いて行くことにする。

 こんな些細な違和感は、日常にいくらでも転がっているものだ。ただ自分が忘れてしまっているだけだろう。

 

(なんか他にも忘れてる気がするんだよなァ)

 

 首の後ろをかきながら、それでもスルガは連中のたわいない話のほうに意識をそらしていった。

 

 

 

 

 

3-2

 

「あ、ツードさんだ」

 一旦、たまり場にて、狩りの行き先会議をしていたところに、遅れて彼が来た。

 ツイードを発見したスミの声で、スルガは数人と囲っていた地図から即座に顔をあげて、表通りの方に視線をやる。相変わらず生活臭のしない歩き方で、ツイードがこちらに近づいて来ていた。

 彼の顔を見た瞬間、昨日、自分が彼を夕食に誘おうと店まで決めて意気込んでのに、結局声をかけそびれてしまった事を思い出す。

 ああ、忘れていたのはこのことだ、とスルガは思った。

 昨夜、スミたちに酒場へ連れて行かれ、延々酒を飲んでいたのだが、何を言われてもどことなく上の空だった。今日の狩りの約束なんかは、おそらくその時にしたのだろう。

 注意力が散漫にもほどがある自分に、スルガは内心ため息をつく。

「おっはよう、ツード」

「ツードさん、ちゃーす」

「ああ、どーも。よかった、狩りまだ行ってなくて」

 『行き先決まりました?』と皆に声をかけるツイードは、笑っているわけではないのに、どこか気さくでいい心地よい空気を感じさせる。相変わらずだなぁと、スルガはそれをぼんやり眺めていた。そのどこまでもいい愛想を見ていると、複雑な気分になる。彼の社交性は、まるでバリアみたいだ。

 親しみ易いけど、踏み込み難い人。彼がそうだとスルガが気づいたのは少し前のことだ。気が付いてからは頻繁に目がいって、そのたび彼の滑らかなコミュケーションに『うまいなぁ』『ああいうのって修羅場くぐってきてんのかなぁ』と感心しきりだった。その視線が、いつの間にこんな恋愛感情となったのか、実のところ自分でもよく分かっていない。

 むしろスルガは彼の人柄を見て、この人にはあまり踏み込んではいけない、と感じていたはずだった。あまりに精巧に思えたせいだ。自分なんかが無闇に触っていいものじゃないし、彼も踏み込まれるのを好まないだろう――という気がしていた。それなのに、自分はどうして、あえての一歩を踏み出してみたくなったのだろう。猫をも殺す愚かな好奇心だ。

 『馬鹿じゃねえの』とこっぴどくフられたら、ああやっぱりねと笑って諦めるつもりだったのに。実際、断られたとき、どうしても彼が欲しい、という強い欲求が頭を支配して、簡単に引き下がれなかった。

 どうしてこれほど強く彼を引き止めて置きたい気持ちになるのだろう。

 いつからなのか、どうしてなのか、何も分からないのに自分は彼が好きだ。

 近頃は顔を見るだけで、なんの疑いもなく反射的に「好きだ」という言葉が浮かぶ。自分が誰かにこんなことを思うときがくるなんて、あんまり考えてこなかった。だからどうすればいいのか、まるで分からない。

 でも、ツイードは、付き合ってくれると言った。肉体関係抜きで。

 だから自分たちは恋人だ。あまり滑稽なところを、他でもない彼にだけは、見られたくない。

 

『スルガさん…ッ! 早く』

 

 突然、今朝の夢の内容が、スルガの脳裏をよぎった。

 肉体関係抜きで?

 いや、どう考えたってあれは。

 

(……あ、あんなこと)

 

 頭の中で、言い訳という名の思考が加速する。

 

(してたよな。したいのか。いや違う、あれはだって、女だったよ。ツードさんじゃない。けど、顔はツードさんだった。声も。どうしてだよ。馬鹿か俺。なにやってんだ)

 

 考えが纏まらない内に、最悪なタイミングでツイードと目が合う。スルガの肩は勝手に引き攣った。

 彼は小首を傾げて、会話を促す仕草をする。何か喋らないと不自然になってしまうが、今のスルガにそんな余裕はない。

 口を開けて、声を出そう努力して――しかしとうとう、何も言葉が思い浮かばなかった。

「……こんにちは」

 苦し紛れに零れ出た挨拶の言葉に、ツイードは瞬きを一度して、はぁ、と頷いた。

「こんにちは」

 思わずスルガは、顔をそらす。

 駄目だ、完全に馬鹿だと思われた。いや、そんなこと今更なのだろうか。でもこれ以上失望させるのは。

「何、やってんの……あんた」

 隣に居たスミが、まったく無様なものを見る目で眉をしかめ、ぼそりと語りかけてくる。

「……何も言うな」

 さらに小声で、スルガは言う。

「やだ、スルガが救いようのない馬鹿だ…」

「……わかってるよ」

 そうこうしている内に、狩りの行き先が決まったようで、本日のパーティーリーダーであるマシューの声が後ろから響いた。

「よーし、決定! はーい注目ー!」

 視線がマシューに集まる。

「今日は炭鉱にいきまーす!」

 

 

 

 

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