あなたの目から覗く世界は

 

 


 ウィステリアが夫の部屋に入った時、ドアの辺りにはすでにアルコールの匂いが充満していた。くぐもっているのに何故かツンと鼻を刺すブランデーのような香りだった。広くない部屋だ。数歩すすめば、すぐにベッドの上に彼が倒れているのが見えた。灯りはない。ドアを閉めるか少しためらったが、この状況を他の人間に知られることと、今の彼と二人きりなることを天秤にかけ、後者を取った。ガチャリと扉が閉まる音が響き部屋は一度真っ暗になったが、幸い月明りがある夜だったおかげで、ウィステリアの目はすぐ暗闇に慣れた。

「はは。なってない。全然、なってないね」

 ベッドからレグルスの声がした。起きていたことにウィステリアは驚く。ノックをしたときに部屋の主からの返事はなかった。彼の声はいつもより幾分か明瞭さを欠いた発音だった。

「確かに俺の妻はそのぐらい綺麗だ。でも、まったく自業自得な理由で自棄を起こして酒に溺れた男を、心配して部屋に訪ねてくるほどの愚かな優しさを持ち合わせていないんだ」

 彼がなんの話をしているのかは分かる。けれど、誰に話しているのかがウィステリアには分からない。

「彼女は聡明な女だ。だから、俺の幻覚にしたって、悪魔の誘惑にしたって、その姿はまったく『なってない』んだよ、分かるだろ」

 もしかすると、寝言なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりに多くを話しすぎている。酔って、前後不覚になっていると考えるほうが自然だ。

「……そう」

 ウィステリアは短く返事をした。するとレグルスはまた乾いた声で笑った。

「声まで完璧じゃないか。よくできた虚構だ」

 ベッドサイドテーブルには、数本のビンが空になって並べられていた。床に落ちているビンすらある。彼がこんな量の酒を飲んでいるところも、飲んだ酒をこんな風に雑然と置きっぱなしにしているところも、ウィステリアは見たことがない。そもそも、レグルスは酒に強いか弱いのか、それすら知らない自分に今気が付いた。

「放っておいてくれ」

 彼は顔を腕で覆っていた。

「くだらない妄想に、付き合ってる余裕はないんだ。俺の魂に価値なんて付きやしない。堕落した快楽を貪るような生活を満喫している」

 なんだか自分に言い聞かせるような言い草だ。ウィステリアはベッドに腰を下ろした。レグルスはこちらを見ようともしなかった。彼が自分をそんな風に扱ったことは今まで一度もなかった。だからこそ、彼は今夢の中にいるのかもしれないと、そう考えたくなっている自分が、なんだか急に愚かしく思えてきた。

「酷いことを言った」

 レグルスは突然、そう呟いた。

「あんな傷ついた顔、初めてさせた。俺はずっと、彼女に対してはめいいっぱい慎重に話してたんだ。ずっと、何年も。だから、もうおしまいなんだよ。慎重が、アダになった。今頃、彼女は部屋で父親宛に手紙を書いている。それだけのことなんだ。たったそれだけで、すべてが事足りる。その一筆が送られて、翌日にはあの家の戸籍から俺は消えてる。翌週には新居だった邸宅の名義が変わっているだろう。俺は名実ともに無一文で無職の放蕩者になる」

 ウィステリアは、今晩手紙を書いていない。別件で書こうと思っていた手紙すら、取りやめたところだった。確かに彼と初めて言い争いのようなことをしたが、そんな程度のことで離婚しようだなんて夢にも思っていなかった。けれどあの口論で、自分が驚き傷ついた以上に、夫は傷だらけになっているようだった。何が彼をそうさせたのか、心当たりがほとんどないことにウィステリアは段々と、焦燥感に似た――感情になる前の言葉の切欠のようなものを、覚えてくる。

「彼女のために、全部捨てたんだ。人生の全部を。あんなに欲しかったオヤジからの関心も、あんなに努力して取った教会の役職も、彼女の前じゃ、おがくずみたいに軽く吹き飛ぶごみだった。馬鹿だと思うだろう? でも、好きだったんだ」

 レグルスの声は弱く、微かに震えていた。どんな顔をしているのか、腕に覆われて表情が見えない。

「分不相応な欲をかくからこうなる。俺にもチャンスが巡ってきたって、馬鹿みたいに飛びついて。必死に媚びて、騙して、無理やり婚姻届けにサインさせて、これで俺の勝ちだって、………あははは、本気で思ってたのか? 手に入れたって? やっとここまできて、まさか、自分がとんだ欠陥品だったなんて、あはははは…!」

 レグルスは寝返りを打った。小さく丸まるように横を向き、ウィステリアからは背中しか見えなくなった。

「…………遅かれ早かれ、こうなるなら、」

 彼の声は途端に届きにくくなる。ウィステリアは消えていく音を追って、彼を覗きこんだ。

「もっと、……やさしく、……してやればよかった。あんな終わり方に、なんで俺は…………」

 

 声はそこで途絶えた。

 ウィステリアが覗き込んだ彼の瞳は閉じられていた。握り込まれていたらしい酒瓶が、彼の手からこぼれて布団に落ち、さらにバランスを崩してゴトリと床にまで落ちて行ったが、その音にレグルスが気づくことはなかった。

 起こすべきなのか、ウィステリアは迷ったが、彼を起こしたところで、今なにを話せばいいのか、まったく見当もつかないどころかどう算段をつけていいのかすらも分からない自分を自覚したところだった。

 婚姻届けに無理やりサインさせたのは、むしろ自分の方だと思っていた。彼の世界では、まったく違う、何もかも別の物語が進行しているらしい。ウィステリアには彼と別れる気はないが、ここまで彼が固く離婚を信じているからには、何かそのような盟約が、父と彼の間でなされているのかもしれなかった。そんなものが、仮にあるのなら、理不尽だ。いや、理不尽だと思っている自分に、ウィステリアは少し驚いている。彼と別れることを、自分が了承していないままに、勝手に進められるのは嫌だ。子供なんていなくても、彼と人生を過ごす気でいたらしい。自分の感情が、なんだか不思議だった。

「……レグ」

 呼び慣れたはずの彼の名を、小さく口にしてみる。呼びかけに、彼が応えないことが、これほど自分を不安にさせるとは思っていなかった。

 

 

2024.03.11

炊き出しの日(あるいは、休館日)

 

 建物の外に出ると、時刻は既に昼も暮れかけのころだった。もう少しすれば、赤や黄や緑のグラデーションが空に描かれる首都の夕焼けが見られるのだろうが、オーフェンが自室にまで移動する間にはそのような美しい時間は訪れない。今、頭上にあるのは、ただ採光を欠き白っぽく濁った空だけであり、昼の活力を失ったばかりか夜の魅力が得られていない半端な合間の時間そのものであり、そこに立っているしかできないひたすらに矮小な自分だけなのであった。
 まったくの徒労に終わった一日だ。他人の要件に振り回される朝から始まって、自分の用事もろくに手につかない昼が過ぎ、もうほぼ終わりかけの日暮れに差し掛かっている。外からやってくる問題事を片付ける順番が自分で選べるだけの日のことを、休日と呼ぶのはいい加減にやめるべきだ。ため息交じりに皮肉なことを考える。オーフェンだって、この後の夜の時間を完全に自分の思い通りに過ごせるのなら、こんなくさくさした気分にならない。でもそうはならないに決まっている。こういう一日の夜はいつだって、朝昼に続く厄介ごとに振り回される夜になるのだ。
 露店通りの賑わいを避けるために迂回した道で、オーフェンの視界に見知った顔が映った。王立図書館の入口の前に、目立つ緑髪のウィザードが立っている。同盟ギルド・クレッセンスの新人で、名前は確かジェン――ジェナードだ。記憶の中の人物図鑑から名前を引き当ててから、オーフェンはもう一度彼を見た。両扉がしっかりと閉ざされた図書館の入口の前で、ジェナードはなぜかドアの上を見ていた。彼の視線はゆっくりと下に降り、さらには何かを探すように左右に振られた。オーフェンは通りがかりついでに彼の側に寄った。
「休館日だぞ」
 突然、声をかけられて、ジェナードは相当驚いたらしく両手の本を引き寄せてこちらのほうを振り返った。しかし自分に声をかけたのがオーフェンであることを認めると、途端にその顔から驚愕の表情を消し、澄ましたいつもの落ち着きを取り戻す。
「こんにちは」
「ああ」
 礼節を欠くことなくジェナードは挨拶をし、オーフェンはそれに応える。そのころにはオーフェンの歩みもジェナードのすぐ隣にたどり着いていた。王立らしい豪奢な葉模様の細工がほどこされた木製の大扉は、無情ともいえるほどしっかりと太いチェーンで施錠されている。
「閉まってるのを知らなかったのか?」
「休みは第三曜日だと聞いていて……」
「教会の炊き出しがある週は、代わりに次の日が休みになる」
「え……」
 オーフェンはジェナードの手に持たれた分厚い三冊の本に目をやった。一番上の本の表紙には見覚えがある。詠唱学の記述書だ。ギルドの狩りもない日にこういった手合いの本を読む勤勉ともいうべき人間に対して、オーフェンは少なくない共感と同情を覚える。ギルド合同の飲み会でも数人を交えて彼と話したことはあるが、その時の印象ともその本の中身は合致していた。ようは真面目なウィザードなのだろう。そして、何故か平素をこう実直に生きている者に限って、重い本を運んできた先が閉まっているというような不運に見舞われるのだ。
「出身はゲフェンだったか」
「あ、…はい、そうです」
「あそこが塔の都合を町の生活の最優先にするみたいに、プロンテラでは教会が何もかもを捻じ曲げて優先されるんだ」
「はあ……そういう、ものですか」
 言ってしまってからオーフェンは、まだ二次職になってから数年しか経っていないだろう冒険者に、自分のような年の離れたプリーストが聞かせるにしては少し冷笑的すぎる話だったか、と内省した。
「すまん。俺もゲフェンの出なんだ。……年々、あっちの嫌な老人の喋り方に近づいている気がするな」
「え、そうなんですか。全然、そんな感じは」
 ジェナードは否定したが、それすらも言わせてしまった社交辞令の一環になった気がして、オーフェンはこれ以上自分が彼に関わっても彼にとって利がないことを悟る。自分自身が、この青年に見舞われる『不運』の一部になってしまっている。
「本を持って帰るのが重いなら、教会に行くといい。仮の返還箱があるから。炊き出し受付のプリーストが預かってくれるはずだ」
 へ、と小さい声を漏らしてジェナードがオーフェンを見上げた。
「俺は教会からの帰りだ。まったく、お互い災難な一日だな」
「ああ、そうだったんですね。……お疲れ様です」
 ジェナードは、嫌な顔ひとつせず、かといって喜んでいるようには見えない顔のまま、「じゃあそっちに行ってみます」と言った。彼はどうにも表情が乏しい。オーフェン自身はむしろ好ましい落ち着きだと思えたが、多くの人間にとっては、どうだろうか。誤解されて損をしてしまいかねないだろう。けれど、やはり自分がこの若者に対してしてやれることは何もない。そのもどかしい気持ちを押し殺し、オーフェンは唯一自分が出来る『この場から立ち去る』という選択を取ることにした。
「じゃあな。また、飲み会で。今度はその本の話でもしよう」
「あ、はい。……ありがとうございます」
 軽く手をあげ、元来た昼下がりの曇天の道にオーフェンは戻っていく。
 もしかすると、声を掛けたこと自体が、余計なお世話だったのかもしれない。100人規模のギルドのサブマスターという現状の肩書では、些細な親切心が、ともすれば暴力的ですらある圧力になってしまいかねない。厄介なものを背負ってしまったと思う。
「あの…!」
 ほとんど離れかけた頃、オーフェンの後ろからジェナードの声が掛かった。歩きながらちらりと振り返ると、彼はこちらを見ながら、焦った調子で声を張ったようだった。
「楽しみに、してます…!」
 オーフェンは思わず微笑んだ。それまで考えていた自分と彼の間の年齢や立場的な差による配慮は杞憂だったようだ。
「ああ、楽しみだな」
 そう若いウィザードに遠くから返答をし、オーフェンは今度こそ岐路についた。
 ほとんどが、くたびれるばかりの毎日だ。けれど味気ない日常に、美しい未来の欠片を見つけることもある。

 

 

2024.03.10

『ナイトのレニ』が加入する事について

 

 レニは正直、今日が約束の日だということを、すっかり忘れていた。
 だからぼんやりと宿でコーヒーを飲んでいた昼下がり、イアーゼが「待たせたな」と自分のテーブルにやって来たとき、何のことだか分からなさ過ぎて、芝居か何かなのかと疑ったほどだ。面倒くさい奴らから逃げるために、騎士と待ち合わせしていたていにする――だとか、そういった感じの事情で、自分は話を合わせるべきなのかと一瞬、周囲をうかがった。(どうしてかは謎だが、ギルドマスターのイアーゼは、無礼な輩にやたらと喧嘩を売られている。童顔で、背が低いからかな、とレニは考えている。)

 

 しかしイアーゼの後ろにいたのは、背の高い緑髪のプリーストで、その男はイアーゼと同じ匂いのする冷静そうな表情をしていた。
「ヴィアのサブマスター、オーフェンだ」
 イアーゼからそう言われて、レニは心の中で「あ」と真相に気づく。
(やっべ、週明けだった。完全に忘れてた、あぶねー)

 

 ギルド狩りのない週末の休みに、何かできる仕事はないかとずっと探していたレニに、「攻城戦はどうだ」とイアーゼが持ち掛けたのは先週のことだ。同盟ギルドにやっているところがあるから、参加してみるのもいい、とその時は雑談程度の話だった。あの時、イアーゼは確かに「週末は向こうも忙しいだろうから、週明けの昼にでも話を通しておく」と言ったが、それきり進捗の報告はなく、『できたらやる』みたいなことかなとレニは半分流していた。
 しかしどうやらイアーゼは、しっかり約束を覚えており、きちんと話を通してくれたらしい。マメだ。
(マメだからかな)

 

オーフェン、これがうちのレニだ」
 レニの向かいに立ったプリーストの男は「よろしく」と握手を求めてきたので、レニは慌てて立ち上がり手を握った。
「どうも、レニです」
「驚いた、男だったのか」
 どう見てもピクリとも驚いていない落ち着いた態度で、オーフェンはそう言った。
「? 女だと言ったか?」
 と、イアーゼがオフェンを見上げると、彼はすぐ首を横に振る。
「いや。名前だけだった」
「はは、たまに言われます」
「でもいいな。上背があって。度胸もありそうだ」
「あります、やる気もあります」
「最高じゃないか」
 声のトーンを変えずに浅く笑うオーフェンは、受け答えに安定感があった。

 

(こういうプリ、モテそー)

 

「いいな、彼、気に入った」
 オーフェンが隣にそう言うと、イアーゼは「当然だ」と答える。
「じゃあ、さっそく皆に紹介して、打ち合わせをしたいんだが、この後は暇か?」
「あ、めっちゃくちゃ暇ッス」
 持て余してるじゃないか、とオーフェンは愉快そうに笑った。レニの攻城戦参加は、すぐに決まったようだった。

 


 ヴィアのギルドハウスは、宿からそう離れていない場所にあった。東側の小通りの一角にある道を挟んだ建物2つで、二階どうしが橋のように連結しているという、夢のある構造をした大きな家だった。こういった建物はプロンテラに多いが、実際、中に入ってみるのは初めてだ。連結部の下を通るときに、上を見上げながら「あの橋、渡れますか」とオーフェンに尋ねると、「あそこが談話室だ、今からそこにいく」と彼は答えた。毎日、あんなところで談話してるのか、とレニは感心する。

 

 二階に上がると、橋の部分は思っていたより広く、向かいの建物の階段まで見渡せるほどの部屋になっていた。両側の壁に窓から光がはいってくる、見たことのない開放感の部屋だ。中央のテーブルでは、冒険者が4人で何やら話をしていたらしいが、レニたちが入ってきたことで視線がこちらに集まり、話は中断されたようだ。
 長方形のテーブルの奥側に3人、手前に1人。何か尋問でもされているような配置だった。

 

誤報だ、誤報。男だった」
 4人に向かって、オーフェンがそう言った。
「ええ?!」と奥のハンターが驚いて、こちらに駆け寄ってくる。
「じゃあ、作戦会議は……」
「いらん、余計な心配だ」
「な~~んだ~~」
 短く刈り込んだ水色の髪の上にオレンジのカラーサングラスをつけたハンターが、レニのほうへ飛び切りの笑顔で握手を求めてくる。
「いやあ~~歓迎、歓迎~~! 俺がギルドマスターのマシュー、こっちがオーフェン。あっちにいるのもギルメンね。おーーーい、みんな、レニくん男だったーーー」

 

 マシューに案内されてテーブルに座らされたレニは、5人からの視線をあびて、とりあえず、がばりと頭を下げた。
「なんか、女の子って期待させたみたいで、すんませんッした!」
「いいのよ、男でよかったのよ! あー、マジで安心した」
「いや、ぜんぜん解決してないですからね? 今回セーフだっただけだからね?」
 ウィザードの女が、マシューにそう訴えながら、テーブル向かいの金髪のプリーストを指さした。先ほど尋問されていた男だ。
「ツードさん問題は、ちゃんと管理しなきゃいけない大問題だから!」
 指をさされた本人は、ゆっくりと煙草を吐き出しながら、落ち着いた調子で口を開いた。
「だから、もういいですけどね、俺。あらかじめ、ホモとか触れ回ってもらって」
「いやぁ、さすがに、それはちょっと……」
 レニは隣のプリーストを見て、一瞬で思う。片目が隠れた金髪の前髪に、赤紫の瞳。気だるそうで、でもなんとなく懐の広そうな空気、そして驚くほど耳障りのいい声。

 

(やっべ、こっちのプリのほうがモテそー)

 

 事情が読めないレニに、オーフェンがした説明はこうだった。
 いわく、このギルドに最近入ってきた新メンバーが速攻で辞めた理由が「この金髪プリースト狙い」だったから、らしい。それが2人続いたことで、ギルド内ではちょっとした問題になっていた。そんなおりに、レニが季節外れの突然参加を希望したものだから、今回も危ないのではないかと作戦会議を練っていたということだった。
 とんでもない話だ。
(やっぱ鬼モテじゃん、すっげー)

 

 金髪プリーストは、ツイードと名乗った。
「空気読んで、俺もツイードさん狙ったほうが良いですかね」
 女性2人は、レニの冗談にギャハハハと大ウケで、「レニくん、ツードさん好み?」と笑いながら聞いてくる。
「お姉さんだったら、どストライクッスね」
「恋人のいるお兄さんなんだよ、残念だけど」
 前衛だから、GVではよろしくな、レニくん、とツイードは緩く笑う。

 

 この男の手綱を握っているのがどういう人間なのか、ちょっと興味あるな、と内心で思って、けれどそんな些末な好奇心のことは全部なかったことにして、レニは笑った。

 

「よろしくおねがいしまーす!」

 

 

・・・

 

 

「濡れ衣なんだよ、完全に」
 クレッセンスから来るという『ナイトのレニ』は、男だったらしい。まったく無駄な話し合いに付き合わされたと、ツイードは部屋に帰ってくるなりベッドの上に大の字に寝転んだ。


 スルガは恋人の悪くなっていく機嫌をなんとか取ってみようと「コーヒー飲む?」と彼を覗き込んだが、ツイードは顔の横で手を振って投げやりな態度だ。
「いいよ、もう酒飲みたい」
「じゃあ飲み行く?」
「違う、それぐらいってだけで……」
 腕で顔を覆っていたツイードだったが、天井を見上げて「いや、もう、それでもいいな」と言い出したから、気分は相当悪いらしい。


「買い出しも、レニくんいるしな」
「うん」
「飲んじゃうか、週初めの昼から。背徳的でいいな」
 週明けの昼に酒を飲むことが、背徳的なのかどうかスルガにはいまいちピンとこなかったが、彼の機嫌が上向きになるのだったらなんでもいい。
「ギルドから費用出ないかな。労災だろ、もう」
「そんな労災聞いたことねえけど……」
「新設してもいい」

 

 ツイードが交際を断ったことがきっかけで新人2人が辞めていったのは、一体どんな種類の労災になるのだろう。スルガとしては、多少自腹を切ってもいいからその労災に協力したい。
 辞めた後で「モーションかけられてたから、緩く線引きしただけなんだけど」と恋人から教えられて、「言ってよ!」「あの女!」「ふたりも!?」「俺もなんか、……なんかしたかった!」という気持ちが複雑に絡み合って、スルガは結局、ろくな言葉をかけていない。
 昔からモテる彼だが、ここ最近の引力はちょっと異常だ。若い時よりも数が増えている。

 

(かっこいいから、分かるけどさ……)

 

 以前、『なんか思わせぶりなことしてない!?』と聞いてしまって、ツイードの地雷を踏んだスルガとしては、あまり余計な言葉をかけずに事態を収拾させたいところだ。

「他人ごとじゃねえからな、そっちも」
 スルガがおたおたと次の行動に悩んでいるところに、ツイードの視線が突き刺さる。
「そりゃ、そうだよ」
「じゃなくてさ。WIZのほうは、どっちかっていうとお前狙いだった」
「え!?」
 あのウィザードが、とスルガは彼女の記憶を脳の奥底から引っ張り出すが、髪が黄緑だったことしか覚えている情報がない。
「そ、……そうなんだ」
「絡んできたのは俺だったけど、お前の話ばっかりだったから。『あれ、相方じゃなくて彼氏だよ』っつったら、次の週には辞めてた」
「だったらそう言えばよかったのに……」
「アンナさんたちに? 余計ややこしくなる。巻き込まれたいの?」
「いやぁ……俺、わかんないよ、そういうの」
「分かんない彼氏を、守ったんだよ俺は。労災なくても、労われたいよなぁ」
 ツイードがベッドに寝転びながらも、じとっとした目線でこちらを見てくる。だんだんとその視線の槍が顔に刺さりまくっていき、スルガは早々に降参した。

 

「分かったよ、俺が奢るよ。なに飲みたいの」
 労災にカンパするどころか、完全に自分の支払いになってしまうが、それも仕方ない。今月の懐具合をスルガが頭の中で勘定していると、ベッドからやわい声がかかる。

 

「なあ、スルガ」
 気づけばツイードが、起き上がりもせずに両手を広げてスルガを呼んでいた。
 そこに近づいていくと、スルガの頭は抱き留められ、ツイードの唇がすいっとこちらの唇に触れてくる。
「……なに、どうしたの、急に」
 スルガの問いにも碌に答えず、ツイードは浅く笑うだけだった。聞く気がない、遊んでいるのだ。スルガはどこか投げやりになり、今度は自分からツイードに口付けて、欲しいだけその唇を吸った。

 何度も感触を確かめて、少し顔を持ち上げると、くっつき合ったものを剥がすように下唇が端からゆっくりと離れていく。それが完全に離れきる前に、また深く口付けると、乾き始めた唇が、また水分を取り戻す。この唇が柔らかく吸い付いてくるのは、ツイードが力を抜いているからだ。こちらばかりが強く求めて、返ってくる感触はやわく甘いのに、どうしたってもどかしい。

 いくつになっても、何度重ねても、このキスの魔力だけはずっと衰えず強いままだ。


「正直さ、」
と、唇が離れた瞬間、間近でツイードが息を吸った。続きを止められて、スルガは半開きの口のまま「え」とそれに答える。
「俺、ちょっと妬けたよ」
 どの口がそんなことを言うのだろう、とスルガは思う。けれど、『どの口がそれを』という事を言うときのツイードの表情は、いつも好きだ。
「……お前が言うの」
 さらにスルガが口付けを求めれば、ツイードはそれに応えながらも、ふふっと笑った。
「辞めてくれて、ほっとしたかも」

 

 嫉妬にかられるツイードの姿を、スルガは上手く想像できない。彼がその言葉を使うときは、いつも余裕があるように見える。けれど、わざわざ自己申告してくるツイードが、なんだかいじらしくて可愛い。自分の感情表現の乏しさを、愛嬌だけで全部カバーしているこのプリーストらしいやり方だと思う。それにすっかり嵌っているが、自分でも嫌いじゃない。

 

「ちょっとは普段の俺の気持ち、わかったろ」
「んー……」
 ツイードは、やはりまだまだ余裕があるような態度に見えた。
 そして彼は、とろんと甘い瞳でまっすぐにスルガを見つめながら、とんでもないことを口走るのだった。

 

「でも悪くないな、これも。背徳きわめたい」
「ええ……」
 それが背徳と繋がっていることは、さすがのスルガにでも分かる。

 

 

2024.01.07

微力(11)

 

 

 

7-1

 

 

 

 パリンと、ガラスの割れる音が夜の路地に鳴り響いた。グラスか窓か酒瓶か、何がどういう経緯で割れたのかは分からない。どこで割れたのかにも、さほど気にならない。その後に続く怒声や悲鳴も、この街の夜を体現する記号の一部でしかない。

 スルガは自分の宿に帰るための最短経路を直進していく。

 暗い路地裏は、相変わらずすえた匂いがした。足元も見えない夜に、建物の側を歩くことは賢明ではない。何が落ちているか分かったものではないからだ。

 通りの道が、人間生活のしわ寄せのような道具やゴミや吐き出されたもので汚れていくにつれて、周辺の宿の値段は下がっていくから暮らしやすくて便利だ。モロクみたいな街と違って、底辺が安定した首都の裏路地は、夜だって狂ったふりをしなくても、誰もスルガの行く道を遮ってはこなかった。

 

 以前、一度、飲み会の後ツイードに送ってもらったことがあったが、あの時は彼をこの辺りまで来させるのは気が引けて、大通り沿いまで回り道をしてしまった。今を思えばあんなことする必要はなかったし、ああいった行いがたぶん彼を苛つかせていたんだろうと思う。

 ツイードは他人を偏った目で見ないけれど、それゆえに自分へ先入観にも敏感な節がある。

 

 初めて彼と体を交えてから、数週間が経った。

 そのあいだに何度か、同じように彼と抱き合ったりする夜を過ごした。最高の酒よりも、極上の食事よりも、なにより甘美な体験だ。情事中に彼は例えようもなく魅惑的で、その芳醇な色気に毎回頭がくらくらするほど酔ってしまう。

 

 スルガが彼との逢瀬の約束を周囲の目に触れないところでするようになってからは、彼との関係は驚くほど滑らかに進むようになった。ツイードと自分の間にあった不自然な軋轢は、簡単な小石が原因だったようだ。

 ツイードからの希望というよりもスルガ自身が、これ以上恋人としてのツイードを周囲に発見されたくない気持ちが強くなったことが、すべての歯車を上手くかみ合わせたように思う。

 

 恋人と上手く関係を保てることが、こんなに気分よく生活を過ごせることに繋がっているなんて、今までの人生では知らなかった。

 こんなに愛しく思える恋人が居たことがない。

 そんな感情を自分が持てるという事実だって知らなかったし、そもそもどうして自分が人を好きになれたのか、スルガにはまだその時点のことすら疑問が残っている。たぶん、相手がツイードじゃなかったら、ここまでの経験には至らなかったんだろう。

 

 知れば知るほど、ツイード人間性はスルガにとって新鮮だ。

 おそらく初めはただの一目惚れで、それは顔が好みだとか、声が好みだとか、そういった表面的なものへの好意だけだったはずなのに、ささいな関心から彼の生活を近くで見ているうちに、段々と彼から目が離せなくなった。自分がどうしてこれほどまでに、彼の生き方に魅了されているのか、スルガにはその根源がまったく分からない。こういった興味がなぜ性的関心に結びついているのかも。

 でもスルガは確かに、ツイードと友人ではなく、恋人になりたいと思っていた。おそらく最初から。この惹きつけられる感覚は、どうしたって恋愛のそれだった。

 

 たまたま彼と付き合えることになったからよかったものの、不可能だったら、自分はどうなってしまっていたんだろう。スルガには、もう、ツイードと付き合えない自分の人生が想像できずにいる。

 

(ラッキーだったよなぁ、俺)

 

 裏通りにひときわ大きい笑い声が響いた。限界を迎えた酔っ払いは、何故か歓喜の声に似た音を出す。なんだか今日は騒がしいな、と思いはしたが、さして気には留めずに、スルガはやっと到着した自分の宿をドアを開け、食堂に入っていった。

 

 

 

7-2

 

 今日はツイードが教会の用事で溜まり場に来ない日だった。だからなんとなく仕事終わりに飲まずに帰ってきたけれど、仲間たちの会合に顔を出せばよかった、と一人で食事を取りながらスルガは思う。

 自分の空腹の為だけに、自分で自分に食事を用意するのが何だか徒労のように感じられる。定宿の食堂でメニューを注文するだけのことなのに、なぜこんな面倒さが伴うようになってしまったんだろう。

 

 頼んだラザニアを淡々と口に運び、黙々と麦酒を飲み込んでいると、ジョッキは瞬時にカラになった。咽喉が渇いていたんだろうか。

 

 追加の酒を注文したタイミングで、スルガの隣の椅子がガタリと引かれた。

「よう、景気いいな」

 許可なく勝手に同席したのは、溜まり場の仲間の一人、アサシンのライオネルだった。

 無造作に伸ばされた薄紫色の髪もそのままに、装束を緩く着こなしたそのアサシンは、見かけ通りの雑さで、ドカっと椅子に腰かける。

「よう。今からメシ?」

「まあな、羽振りいいなら奢れよ」

「やだよ」

 テーブルの皿を少しよけて彼のスペースを作ってやりながらも、スルガがライオネルの無茶な要求をはっきり拒むと、彼はケケっと笑ってから、片手を上げて店員を呼びつける。

「キドニーパイと、ビール。黒な」

 

 久々にこのアサシンの姿を見た。今までどこに行っていたのかは知らないが、様子を見ると変わりもなく冒険者をやっているようだ。

「お前、スミが探してたよ」

「まだやってんのかあの女」

「そりゃ探すだろ、顔見せなくなったら」

 溜まり場の仲間たちは、彼らのことを恋人だと思っているが、それはスミからの見解で、この男の方からの認識ではそうじゃない。けれどそういうのも含めて、一つの恋愛関係のありようなのかな、とスルガは思っている。結局、どこまでも本人たち同士の話でしかないから。

「ケッ。くだらねえなぁ。やっぱアサシンでも駄目か。首都の女はゴミぞろいだ」

 

(そうかなぁ)

 

 何を、どこと比べて? そういう疑問がスルガの頭に浮かぶが、この男に聞いても回答は得られないだろう。

 

「アイツのせいで溜まり場にいけねえじゃねえか」

 まるで借金取りから逃げ回るようなライオネルの態度が、スルガには少し不可解だった。

「だったらちゃんと別れろよ」

「ハイ?」

 関係の解消を宣言するだけで、その煩わしさは簡単に消えるのでは、とスルガは一瞬考えたが、『いや、まあそんな簡単なことじゃないか』というようなことはすぐ理解できた。しかし言い訳は遅れ、ライオネルは片眉を上げたまま、疑念に満ちた視線を寄越す。

「お前までンなこと言ってんの? 茶番だろ、あんなの」

 いつものライオネルの言い分が始まってしまう。

「バカみたいに薄ら寒い、ごっこ遊びの子供だましだ。なにマジに取ってんだよ。お前だって分かんだろ。あっち側の言い分みてえなこと言ってんじゃねえ」

 料理の到着も待てずに、アサシンは煙草に火を付けた。大きく吐かれた煙のせいで、彼の感情まで霞んで見える。

「……そっか」

 

 ライオネルがこんな風に本音のようなものを吐露するのは、仲間内じゃ自分にだけだ。スルガはその自分にかけられた信頼の根拠が、ライオネルいわく『スラム育ち』というところにあるのが、いまいち腹に落ちていない。

「俺、よく分かんないけど」

「分かれよ、クソ馬鹿」

 確かにモロクの、ここよりは治安のよくない場所で育った。でも生まれはアマツだ。砂ぼこりまみれの風景も、松が植わった浜辺の風景も、どちらも明確に思い出せる。

 ライオネル同様、幼少期は両親が家にほぼ居ないような家庭環境だったけれど、自分は家の中のパンを盗って食べても、めったに殴られなかった。

 あれをスラムと呼ぶのかどうかも分からないし、あの経験が自分に何か特別なスキルを与えたのかどうかも分からない。

 そしてそういう育成環境が、『恋人関係はすべて茶番だ』と思うような精神性と、何の関係があるのかなんて、それこそまったく分からない。

 ライオネルが自分のことを仲間だとみなすその信頼感こそ、なにかそういった類いの別の幻想じゃなかろうかと思いはするものの、彼のそれを無闇に裏切りたくないという気持ちも働いて、スルガは上手く返事ができなかった。

 

「……嘘でも、別によくない?」

「ハ、騙せって?」

 ライオネルが、鼻で笑う。

「騙すっていうか、そんな風にも思わないだろ、たぶん」

 

 ライオネルの言っている言葉の意味やその価値観が、まったく理解できないわけでもないから、スルガはこの混乱を自分の内側に向けるしかなかった。

 スラム出身の自分と、アマツ出身の自分を、都合よく使い分けることが、なんだかできない。

 本当は簡単なことなのに。ライオネルの前では調子を合わせて世界の偽善を笑い、スミの前では不義理を非難し彼女の背を撫でる――そう、できるはずなのに、なぜ自分はそうしないんだろう。

 

東通りのさ、ホットドッグ屋、あるじゃん」

「あ?」

 ライオネルは眉をしかめたものの「あるな」と返事をした。この男の、こういう所は好きだ。

「あそこさ、看板に『ミッドガルで1番ウマいホットドッグ!』って、書いてあんじゃん」

「……」

「あれってさ、嘘とか……思う?」

「何が言いたいんだテメェ」

 ライオネルの視線は鋭かった。

 スルガは自分の思考回路がいつのまにか、ライオネルとスミの関係に留まらず、もっと曖昧な、すべての人間関係の名称について感じていることへ、ふわふわと漂い流れていってしまったと気づいたが、もう話の収束のさせかたが分からずそれを続けて言うしかなかった。

「いや、なんつうか、ああいうのに、騙されたとか、そういうのないじゃないかなって」

「それとあの女の何が関係あんだよ。お前、相変わらず、なに言ってんのかサッパリ分かんねえな」

「え? 俺、今なに言ってんのか分かんないこと言ってる?」

「ぜんぜん分かんねえ」

「マジかぁ。俺、ヤバいな」

「ヤベえよ、テメェは、前からずっと」

 

 また、自分の中にあった何かの感情が、言葉にならないまま拡散していくのが分かる。でも、それをつかみ取る手段がスルガにはない。ずっとこういう意思疎通の困難さが、何故か自分の人生に付きまとっている。

 

 この後いつものようにライオネルから「腕は良いんだからシャンとしろよ」「クソボケだから貧乏くじ引かされんだよ」と説教をくらうのだろうし、その時の自分は「ああ」とか「うん」とかしか答えられないんだろう。この思考の停滞から、抜け出せる明確なビジョンが、スルガにはない。

 

(……ツードさんなら、分かってくれんのかな)

 

 

 

 

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微力(10)

 

 

 

6

 

 コンコン、とノックされたドアの音は、おそらく非常にささやかだった。

 けれど意識の覚醒まぎわだったスルガは、その音にガバリと飛び起きる。他人の気配だ。視線はほとんど無意識にいつものテーブルを探す。

 テーブル――がない、いつもの位置に、カタールがない。ナイフは? 咄嗟に枕の下へと手を差し込むが、柔らかな布以外の感触が無かった。ない。やばい。何が? どうしよう。どうして何もない? 昨日自分は――

 

(…………ちがう、ここ、俺んちじゃない)

 

 混乱する思考のまま、スルガが辺りを改めて見渡すと、そこは陽の光がさし込む見覚えのない部屋だった。

 昨日は夜に来たせいで、室内の雰囲気ががらりと変わって見える。

 ツイードの部屋だ。

 

 コンコン、と再び、ノックの音が響く。

 

「あの、ツードさん」

 隣で眠ったままのプリーストへ、スルガはおそるおそる声をかける。

「ひと、来てます」

 反応がない。

 慌ててスルガが肩を揺すると、渋々といった具合にツイードは声を出した。

「……ン」

 けれどそれはほとんど唸り声のような音でしかなく、ツイードの眉間にはみるみる皺が寄り、彼は布団を手繰り寄せて壁側を向いてしまった。

「え、ちょ、ツードさん?」

「……」

「え!? ツードさん?」

 

 三度目のノックの音がして、スルガは仕方なくベッドを下りた。彼の部屋の扉を、許可なく開けることに抵抗はあるものの、部屋主がああでは他にどうしようもない。

 ドアの向こうにいたのは、ブラックスミスのビジャックだった。

 

「早い時間にごめん。俺、今日、溜まり場に寄らないからさ」

 頼まれていた物だ、とビジャックはスルガに荷物を手渡した。彼はツイードの部屋から出て来たのが本人ではなくスルガだったことに、まったく何の驚きも見せなかったし、そのことについて話題にすらしなかった。

 スルガが受け取った紙の包みは、大きさの割にずしりと重い。中身はおそらく本だろう。

「それから、こっちは転売たのまれてたやつ。利益の六割」

「あ、はい」

「またよろしくどうぞ」

 小さな布袋を受け取って、スルガがビジャックと顔を合わせると、

「……って、言っといて」

 と、彼は初めて、ツイードに向けた言葉ではなく、スルガに向けてそう言った。

 

「お、起こさなくても?」

「いいよ、どうせアイツ起きないだろ」

 あ、そうなんだ、とスルガは思ったが、同時に「そんなことあるか?」という気もした。

 

「居てくれて助かった」

 ビジャックはそうスルガに礼を告げ、家主の顏も見ずに帰って行ってしまった。

 ぽつんと、玄関にスルガは残される。

 

 立ちすくんでいても仕方ない。預かった荷物を、とりあえずテーブルの上に置き、スルガはベッドに戻って腰を下ろした。

 布団の膨らみからはツイードのきれいな金髪が覗き、それが陽の光を受けてちらちらと輝いている。

 

――スルガさん……っ

「……!」

 突然、脳裏に昨夜のツイードがよぎる。

 スルガの血流は興奮を取り戻したように、バクバクと胸を鳴らしていた。

 彼の目にかかるあのきれいな金色の髪。少し前までは遠くで眺めているだけだった。

 

(……俺、昨日、この人と寝たんだな…………)

 

 改めて考えると、とんでもない事実だ。そんなことが可能になった現状が、なんだか信じられない。望んで、避けられて、渇望して、拒絶され――ていた事が、けっきょく昨夜、できてしまった。現実に実感がない。

 足元がふわふわしている。記憶もなんだか、あやふやだ。

(でも、めちゃくちゃエロかった。あんま覚えてないけど、すっげーエロかった)

 

 昨夜の記憶をさぐればさぐるほど、段々と冷静さが蓄積されて、恥ずかしさが増していった。

(俺、マジでツードさんとヤったの? っていうかさっき、ビジャックさん来たけど、あれ、思いっきりそういう感じって、分かっちゃった、よな……?)

 あのブラックスミスは自分の見聞きしたことを無闇やたらと言いふらすような男じゃない。いや、言いふらされたって、別にいいはずだ。何もやましいことはないんだし。そう考えなおしはしたものの、スルガの頭の片隅には、なにかもやもやした感情が残る。

 

(でも、ツードさんのそういうとこ、知られんのが、なんかやだな)

 ツイードが、誰かと寝てるなんて、そんなこと誰にも知られたくない。

 

 スルガだって、まさかツイードが周囲の人間から『今まで一度も性体験がない』だとか、絶対そんな馬鹿なこと思われていないということは知っている。そう、ツイードがセックスしていることなんて、みんな知っているのは分かっている。

(みんな? みんなって誰)

 知らないけど。知らないけど、知っているに違いない。面白くない気分だ。

 自分以外、世界中の誰も、ツイードの色気に、気づかないで欲しい。誰も妄想しないでほしい。どんな風にキスするのか、だとか、どんな顔で服を脱ぐのか、だとか。あんな煽情的な彼の姿なんて。自分以外、誰も。

 

(世界で初めて俺が発見した……ってことに、できないかな、今から。なんか、機密事項とかに、なったりしないかな……)

 

 馬鹿げた考えだ。隣で眠ったままの彼に知られたら、きっと笑われる。

 スルガは、きれいな金髪の後ろ姿を眺めながら、世界一無駄なことを考えている。その金色の髪は、頭の頂点から、美しく重力に沿って流れていき、枕で一度、折れ曲がり、また流れてゆく。

 この光景ですら、情事の後の特権なのではないかと思えるスルガの思考回路は、いつまで経っても冷静さを取り戻せない。

 

 誰にも知られないのが無理なことぐらい、自分が一番よく分かっている。

 

(だってこの人――なんかもう、オーラがすでにエロいもんな……)

 

 ツイードの起きる気配はない。

 なんだか悶々とした感情のまま、スルガは陽の当たる彼の部屋に一人、取り残された気分だった。

 

 

 

 

 

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軌道

 

 

珍さんのさ、カタールに乗ったことある?
あれ最高なのよ。
下から切り込まれたときに、靴先をちょっと浮かしてさ。飛び上がる瞬間に、刃先に合わせんのよ。
したら、軌道に合わせて脚がグンって上がんの。間違ったら脛から先が吹っ飛ぶけどね。
うまく靴と噛んだら、あの人らの斬撃の勢いで自分が空にぶっ飛べんのね。
最高に気持ちいいよ、あれ。
回転かかるから、宙返りできるしね。
面白いから、一回、ギルドの奴に頼んでやってもらったことあんだけどさ。
逆に、戦略にも使えそうじゃん、影葱が飛んだら。ウケるじゃん。
でも駄目だったわ。全然ちがった。飛ばないし、そもそもタイミング合わねえし。
ありゃ、なんてんだろ、勢いかな。
俺、戦闘中には、アレ失敗したことねえのよ。
「乗れんじゃね?」って思って初めてやったときから、今までずっと、やったときは乗れてたんだよ。
なんだろね。
殺す気で切りかかって貰わないと駄目なんだな、やっぱ。
一致しないんだよ。間合いも、角度も、振りあげる強さとかもさ。
殺すタイミングでしか、合わねえのよ。
中途半端に刃物が向かってきても、危ねえの逆に。使い方知ってる奴が、知ってる方向に、全力でやってくんなきゃさ。
手伝ってもらったギルドの珍も、腕は間違いないし、力もあるほうだし、なによりさー、ちゃんと俺のこと嫌いな奴えらんだはずなんだけどなー。
何が足んなかったんだろ。
気合い?
俺、思うんだけど、たぶん、あんたなら乗れる気がすんだよな。
あんたなら、俺が乗れる切り方、できると思うんだわ。
ためらいなく切りかかってくれそう。って、ギルドの奴とやって失敗したとき思ったんだよ。
ああ、コイツはあんたじゃねえもんなって。
あんたはちゃんと、俺のことを殺そうとしてくれるもんな。
そうじゃねえと、噛み合わねえのよ、俺ら。
だから、今日もちゃんと、ぶっ飛べたんじゃん?
聞いてる?
なあ、あんた、なんで俺の話全部スルーしながら作業できんの?

 

 

230321

夢の中の彼


 時々、まだ、どうしようもなく兄の夢を見る。

 繰り返すせいで、現実でもないのに記憶の一部になってしまった夢だ。「またあの夢だ」と夢の中でも分かる。

 分かるのに、どうにもできない。

 その無力さが、幼い頃の感覚の一部に、妙にリンクして、だから不思議な納得感がある。理屈も何も通っていないのに、すとんと腑に落ちる感覚だ。

 

 夢の中の兄は、いつも暴言を吐く。

 自分に向かって真っ直ぐに。正面から、目も逸らさず、はっきりとした発音で、自分に罵詈雑言を浴びせる。冷静に、淡々と。まるで何かの作業のように。

 同じく、作業であるかのように、自分はそれを黙々と聞いている。お互い立ったまま、或いは自分だけが座ったまま。向かい合って、自分を静かに罵り続ける兄の姿を、じっとみている。

 

 本当は、兄がこんなことを言うわけがないと分かっている自分がいる。だからこれは夢だ。じっとその顔を見つめすぎて、だんだんと兄の顔のつくりが分からなくなってくる。彼はこんな顔をしていただろうか。こんなことを兄が現実で言っているところを聞いたことがない。なのに、確かに目の前に居るのは兄であると解かる。

 

 兄の言葉は止まらない。

 自分は止める手段を知らない。止めることを放棄している自分がいる。聞いたこともないような酷い暴言なのに、自分でも驚くほど動揺していない。真っ直ぐに向けられる悪意を、ただ真っ直ぐに受け止めている。

 『こんなに長く兄が自分に向かって何かを言うことも久しく無かった』とか、『兄の声はそういえばこんな風だった』とか、頭の中では、どこか俯瞰した感情が途切れ途切れに思い浮かんでは消える。浴びせられる暴言の真っ最中に、どこか他人事のようにそう思う。

 

 兄も兄で、怒っているようには見えない。その表情は至って普段通りで、けれど口だけはよくここまで次から次に出てくるものだと思えるほどの暴言を吐く。

 

 ここまで言われる原因が、分からない。

 こんな労力を費してまでわざわざ頭を使い、声に出すのだから、余程のことなのだろう。あの無気力な兄が、ここまでするのだ。けれど、自分には原因が思いつかない。兄が何をそこまで執着しているのか、分からない。

 これが悪意であるのかすら、真の意味では判断できない。

 ただ延々と吐き出され続ける言葉の数々を真正面で浴び続けるばかりだ。それを酷く客観的に、受け止める。

 

 悪かったと、思う気持ちがある。

 ここまで言わせるほどに、兄をかきたてたのだから。

 けれど、もっと他にやりかたがあるだろうに、と呆れる気持ちもある。

 口汚く罵られるだけでは、一体何がいけなかったのか根本的なところが分からない。だからそれを改めようがない。ここには、なにか問題が確かにあるのに、それを解決する方法がない。ただ、受け止めるしか。この不自然に平坦な暴言を吐き続ける兄の目の前で、じっとしているしか、手段が無い。

 

 そのうち、『もっと怒ればいいのに』という気持ちまで沸きあがってくる。

 こんなに長い時間をかけて一言一言を淡々と発音するより、激怒して唾を飛ばしながら、大声で一言、怒鳴りつければいい。そうしてくれたら、自分は困り果てて泣きついて許しを乞おう。そんな、起こることもない事柄への対策をぼんやり考える。

 

 けれどもちろん、兄は顔色一つ変えない。

 

 言ってくれればいいのに。

 怒りたければ怒ればいい。悔しいのなら泣けばいい。八つ当たりだって構わない。

 でなければ自分は、いつまでも、黙ったまま。

 兄の正面で、何もできないまま。

 冷たく抑揚の無い声で、あらゆる罵詈雑言を聞かされるまま。

 目の前で、じっと、兄を見つめることしか出来ない。

 

 繰り返す、悪夢だ。

 なにも現実ではないのに、なにかが酷く現実に似ている。どうしようもなく、その夢を見ている。何年も。繰り返し。

 

 兄とはもう、何年も会っていないのに。

 

 

2023.02.03改